作画語り・イズ・デッド

ゼロ年代、一部の界隈で「作画語り」が盛り上がっていた。当時、私は「作画語り」によって、アニメはハイカルチャーに押し上げられると思っていた。だが「作画語り」の文化は段々と廃れていった。この文章は「作画語り」が、なぜ盛り上がったのか。そして、なぜ廃れたのかに関する考察である。
まず、ゼロ年代に作画語りが盛り上がった理由を3つほど挙げよう。

1つは「WEBアニメスタイル」という小黒祐一郎が立ち上げたメディアの功績だ。「WEBアニメスタイル」は有名アニメーターにインタビューする記事をあげていた。それまで見えにくかったアニメーター情報や、業界内で流通している技術論が可視化されて「作画に興味ある人」が「作画オタク」になる為には「何をどう見れば良いか」という情報が簡単に得られるようになった。

2つ目は個人HPやブログカルチャーだ。
インターネット作画語りの黎明期「沓名設備」というHPがあった。運営者のcoosunは作画オタク的なgifアニメを公開していた。それがアニメ業界内外で注目を集めて、BBSにアニメーター関係者が集まることになった。また作画ブログの有名どころには、はてなダイアリーの「あんていなふあんていなダイアリー」(takeshito)などがあった。

3つ目は「作画スレ」の存在である。2001年「沓名設備」のcoosunがアニメ・漫画業界板に「巧いアニメーターを語ろう!」というスレを立てる。その2年後、アニメサロン板に「作画を語るスレ」が立つ。「作画スレ」の主な話題は業界ゴシップやアニメーターの個人情報だ。作画スレは作画をネタに雑談するスレと化していく。一方「理論構築としての作画語り」は実践者の手に委ねられていった。オンライン産まれの作画語り戦士であるyamaやcoosunは「web系アニメーター」と呼ばれ、アニメ制作の解説本「新しい作画」という同人誌を発行するに至る。

さて、ざっと「ゼロ年代の作画語り史」を振り返ってみた。なぜ作画語りは廃れたのだろうか。それは作画が批評を必要としていないからだ。2000年、雑誌「アニメスタイル」は美術手帖の増刊として発行された。だが「作画」はハイアートにはならなかった。アニメーターは職業人であり、作画オタクはそれを消費する者。それだけの事だったのだ。


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