どちらが歩み寄ったのか

鳥取から親父が来てくれていて、ふた晩飲みにいったんですよね。
就職先に全然納得してくれていなかった1年前から、あまり話したくなくコミュニケーションが少なくなっていたから、そんな親父と2晩も続けて飲みにいくなんて、快挙だと思う。
親父をホテルに送ってから、僕が変わったのか、親父が変わったのかどちらなんだろうと感じた。

1年前、シアトルコンサルティングに内定をもらって、その場で内定承諾をした。ただ、その後、親からの猛反発を受けた。趣旨としては、なんで大手に行かないのか。夏に大手で行きたいと思っていたところは見ていたにも関わらず、その上でシアトルコンサルティングという、なもしれぬ、LIIの紹介がなければ知らなかっただろう企業に、僕が意思決定することが納得できないようだった。オリックスや赤い銀行とかにその夏の当時は行きたかったからか、そういうところにいけとずっと言われ続けたし実際今でも願われていると思う。ただ、そいう企業に行きたくなる感覚がわからないとは言わなけど、僕からすればそこに縛られる感覚が割と理解できなかった。
さっくり言ってしまえば、お互いの視界が理解できていなかったのである。

半年くらい前に読んだモチベーション革命で人の幸せは5個あるというのを読んだ。達成、獲得、意味、繋がり、あと知識だっけ。そして、親の世代は達成と獲得に幸せとモチベーションを見出していた世代(乾いた世代と呼んでいた)なのだと書いてあった。逆に僕たちは乾けない世代と分類できるとも。読んだ時は「そう!そうなんだよ!そんなところ(達成と獲得)にモチベーションを感じないんだよ!」と自分を肯定する気持ちで読んでいたが、LIIで学生と話しているうちに、乾いた世代的な欲も重要なよくだな〜と再認識するようになった。マズローの欲求段階で言えば下位2段の欲求、二要因理論で言えば衛星要因に当たるようなもの。これらの欲って、就活時代にはほとんど考えていなかったけど、普通に重要だな、軽視していいものではないなと。そしてわかったことは、僕はこの欲求を満たしきっていないということ、衛星要因で突き動かされる行動を僕は今でもし続けていること。消費するお金を稼ぐためのバイトとかまさにそれ。無自覚なだけで、全然満たされていない。この現状に自覚して初めて、シアトルに意思決定をするリスクを親目線で理解し始めた気がした。投資に回せる待遇をシアトルの中で受けることがでkないかもしれないということ。
福利厚生、制度・待遇、表だって語るとネガティブなイメージを与えてしまいそうなものだけど(てか、これがネガティブっていうのもな〜)しっかりこの辺りを本当に重要視して意思決定をしようとしている学生の原体験を聞いたりすると、自分は恵まれているし、あの頃は鈍感だったと今は感じる。そして今の道で将来生まれるかもしれない我が子たちに同等以上の富を捧げてあげることができるのだろうかと一人で考え出す。僕が今享受できている親からの富は空間軸的にも時間軸的にもとても奇跡的なのかもしれないとも感じるようになった。奇跡的なものならとてもありがたく、運がいい。そうして、やっと、両親が伝えたかった、より多くの人を知っているからこその「怖さ」がわかる気がした。純粋に我が子に幸せになってほしいと願ってくれているのだと。ありがたいものだ。本当に。自分が親ならリスクが小さい安定的な就職先に入ってほしいと願う。ただ、その反面やりたいことをしてほしいとも。
この1年、両親は相当苦悩したのかもしれない。やりたいことをやらせてあげるべきか、社会的に安定していて研修がしっかりしたところでしっかり育ててもらうべきか。僕の夢が、リーディングカンパニーで昇進レースに勝ち続けることなら苦しくはなかったのだろう。10年後、もしくはもっと早く僕はゾンビの仲間入りをしているイメージしかないが。笑

とは言え、だ。両親も僕の視界を理解してくれていなかったように思う。これからの社会では、社会・コミュニティ・市場が、もっとグローバルな大きな単位になっていく流れと、もっとローカルニッチな小さな単位になっていく流れがある気がしているという感覚を。VUCAさが加速的に大きくなっていくと言われている社会において、全体をわかることなく、末端を担っていると、将来待っているのは新興国の労働者に取って代わることに怯える自分なんじゃないかという感覚を。この辺りはおそらく、理解されていなかっただろうと感じる。僕はローカルニッチな世界でアメーバのように形の規定されないチームで仕事をしていきたいからシアトルに意思決定するという感覚はもっと伝わっていないと思っていた。でも、この前あった時に親父が「何が一番いいのかわからん」と打ち明けてくれたことに驚いて、嬉しく感じた。あぁでも、なんでそう考えたのか聴けてないや。どうしてなんだろう。親父に何が起こったんだろう。

テーマに対する答えは、両方歩み寄ったということになる。
親父が歩み寄ってくれた感覚がすごく強かったのだけど、僕も歩み寄っている。自分も進化してるようで嬉しい。
今回は両親との溝の話だったんだけど、僕はこんな例が知り合いが3人いれば1人は起こりそうな人間である。相手の視界理解が苦手なんだよね。
人の数だけ視界があるっていう考え方の中でいきていきたいし、無意識なりにもそういきてきたつもりだったから、悲しくはある。
対極にある理想はまだ考えられないけど、得意にしていきたいな〜。


今書き起こしてみると、案外まだまだお互いの視界が共有できてない気がしてきた。それでも、今回あっている間は今までになく、心地いコミュニケーションが取れた。全体で見れば100ある距離のうち30ほどしか歩み寄っていないと考えるのだが、それでも楽しく意見交換出来るだけの効果があった。この事実は自分に視界共有の大切さを教えてくれたし、インパクトもわからせてくれた。

今になってみればあまり論理的な意思決定ではなかったし、セオリーを重視した意思決定でもなかったと思う。そんな、意思決定をする前に今みたいなことを感じられていたかったよ。就活している方の多少の参考になれば嬉しいな。

読んでいただきありがとうございました。

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