シャッツキステが閉館する

シャッツキステが閉館する。そんな日が来るなんて僕は全く想像していなかった。公式ホームページを見ると閉館時期は今年の12月から来年の3月15日までと書いてあるから、まだ半年くらいは営業するらしい。けれども、半年くらい先にはシャッツキステが秋葉原からなくなる。ちょっと想像できない。

他のメイドカフェ(今ではコンカフェと言うべきなのか)が入れ替わり立ち替わり変わっていっても、シャッツキステだけは末広町の蔵前橋通り沿いに不動の存在としていつまでも存在しているものだと僕は何となく能天気に考えていた。ところがそんな考えは、実に根拠のないぼんやりとした淡い期待に過ぎなかった。

もしかしたら、という可能性は店主である有井エリスさんのツイートから感じてはいた。夫の海外赴任に伴い、シャッツキステの経営をこのまま続けていくべきか悩んでいる、しかし続けることにしたという主旨のツイートをしていたからだ。そこに今回の新型コロナウイルスが来た。シャッツキステは30分500円で紅茶飲み放題というシステムだから、感染防止のために席数を減らすと売上の減少に直結する。また、現在のメイドカフェでは珍しくアルコールを出さない「喫茶店」であるから、客単価を上げるのも難しい。政府が掲げる「新しい生活様式」とシャッツキステの営業システムは実に相性が悪い。

メイドカフェ業界におけるシャッツキステの独特の存在感を、「メイドカフェおたく」の人たち以外に上手く説明するのは難しい。シャッツキステは私設図書館をコンセプトにしたメイド喫茶であり、黒のロングスカートと白のエプロンを基調にしたクラシカルなメイド服で給仕をする東京でも数少ない「正統派」のメイドカフェである……、もちろんそれはそうなのだが、そうした説明からはこぼれ落ちてしまうあまりにも過剰な何かをシャッツキステは担っている。

シャッツキステの独自性を説明するにはメイドカフェの歴史を紐解く必要がある。詳しい解説は別の機会に譲るが、2006年にシャッツキステがオープンするまでメイドカフェには大きく2つの潮流があった。1つはキュアメイドカフェやワンダーパーラーカフェに代表されるような、給仕するメイドを「見る」ことに重きを置いて設計した店舗である。もう一方は、ぴなふぉあや@ほぉ~むカフェに代表されるような、メイドとのコミュニケーション、つまり「話す」ことを重視して設計した店舗である(こちらが世の中一般に知られているメイドカフェのイメージに近い)。非常にざっくりと分類するならば、メイドを「鑑賞」するためのメイドカフェとメイドと「会話」するためのメイドカフェがあった。そして、2000年代半ばのメイド喫茶ブームの真っただ中でオープンしたシャッツキステは、緻密に構成された世界観の中で「観賞」と「会話」を統合した実に画期的な店舗だったのである。

当時のシャッツキステは、現在の蔵前橋通り沿いのビルではなく、中央通りから西に一本入った裏通りの小さな雑居ビルの5階にあった。細く急な階段を昇り、重い鉄の扉を開くと、そこにはビルの外観からは到底予想もつかないようなカントリー調の「屋根裏」の世界が広がっていた。クラシカルなメイド服を着たメイドが紅茶を注ぎ、「カッタン」と呼ばれる秤でクッキーを計り、お客さんとおたく話に花を咲かせている。僕が初めて「屋根裏」を訪れたのは2007年の1月、今から約13年半前、まだ27歳の時だった。僕はそのどこか浮世離れしたフワフワした世界観に瞬く間に魅了された。そこでは、その空間そのものを鑑賞することと、メイドと話しくつろぐことが見事に統合されていた。それは、ひとつの「世界」だった。

今でも僕は屋根裏で過ごした時間を思い出すことができる。伝票替わりの鍵の手触り、少し湿気たクッキー、お客さんが階段を昇って来る足音、床のレンガの感触、サラさんの人形、ボードゲームのルールを説明するレイラさん。満席時にはブラックメルメルカードにスタンプを押してもらったこと、ユナさんとドット絵づくりの話をしたこと、平日の昼間に聴いたルイさんのバイオリン、アリアさんに突き飛ばされるダナさん、ぼーっとしている時はなぜか片足で立っているククイさん。こうやって書いているだけでもひどく感傷的な気持ちになってくる。そして、それらの一つ一つがシャッツキステという物語の一部になっている(ちなみに、屋根裏の物語は「ともしびの物語」という3分冊の同人誌になっており、物語のラストで実は屋根裏は過去の本物の屋根裏を模して造られたものであることが明かされるというメタフィクショナルな構造になっているのだが、この話を語りはじめると長くなってしまうので別の機会にします)。

今思えば屋根裏時代のシャッツキステはあらゆる意味で特異な場だった。開店から閉店までの3年間、8人のメイドで固定され、メンバーの入れ替わりが一切ない(厳密には離脱するメイドもいるのだが、物語上は8人のまま完結する)。3ヵ月もすれば店のメイドが半分以上入れ替わっていることも珍しくないこの業界で、メンバー固定制は異様という他ない。メイドひとりひとりの物語とシャッツキステの物語は緊密に結びついており、運営上のリスクを冒してでも固定メンバーで継続したかったのだろう。その心意気にしびれる。訪れるお客さんもおたく第一世代の硬派な人が多く、店内では映画やアニメ、漫画のディープな会話が日夜繰り広げられていた。そんな話の輪の中に溶け込めるほどの知識と機知を僕は持ち合わせていなかったが、それでも彼らとメイドが熱心に喋っているのを僕はひとりで楽しく聞いていた。もはや「伝説」と化したあの場所に通うことができたことを僕は幸運に思う。

やがてシャッツキステは屋根裏での3年間の営業を終え、2009年に現在の蔵前橋通り沿いの店舗に移転、メイドが営む私設図書館というコンセプトで営業を開始する。「図書館」は大通りの路面店ということもあり、屋根裏時代とは異なり幅広い客層を受け入れていった。屋根裏が閉じた秘密の空間であるとするならば、図書館は広く門戸が開かれた半公共的な空間だった。その「私語の多い図書館」で僕は実に様々な人たちと出会った。折しもツイッターが日本でブレイクし始めた頃であり、ツイッター上で交流した相手と図書館で出会うことも多かった。後に一緒に同人誌を作ることになる英国ヴィクトリア朝研究者の久我真樹氏とも図書館のイベントで初めて会っている。2010年代の前半、僕は人と会うのが楽しくてしょうがなかった時期があり、その中心となった場はシャッツキステだった。

シャッツキステは僕の人生に少なからぬ影響を与えた。シャッツキステでメイドカフェの奥深さを知った僕は、長期休暇になると全国各地のメイドカフェへ遠征に出かけた。2011年には全国のメイドカフェの出店日・閉店日を収集したデータベース本を作り、2013年には著名なメイドを集めたトークイベントを主催し、メイドカフェ文化を論じた上下二段組の「メイドカフェ批評」という硬派な同人誌も作った。2014年には秋葉原の中央通り沿いにあるワンルームマンションに引っ越し、どこかでイベントがあればすぐにでも駆け付けた。自分の部屋に友人を招いては深夜までメイドカフェの話題で盛り上がった。あのマンションの一室は自宅であり、僕の屋根裏部屋だった。30代の前半は仕事そっちのけでメイドカフェに明け暮れた。

けれども僕は次第に冷めていった。シャッツキステは独自の世界観の上に「観賞」と「会話」を統合する新しいメイドカフェのスタイルを切り開いたが、東京のメイドカフェではそのスタイルを受け継ぎ、展開していく店はほとんど現れなかった。2010年代のメイドカフェの主流は、バーカウンターを中心に設計され、お酒を飲みながら「推し」の女の子との会話を楽しむガールズバースタイルの店へと変化していった。もちろんバー形式の店を否定するつもりは毛頭ないし、経済合理性を考えれば喫茶よりもバーの方が客単価を上げやすいことも理解できる。しかし、バー形式の店は一点致命的な欠陥があり、余程店舗設計を工夫しない限りは、店舗全体を含めた総合的な世界観を鑑賞するという視点が失われ、「女の子」を鑑賞し、話をするという側面が強くなり過ぎてしまうのだ。つまり、何というか、世界観という全体性が損なわれてしまう。そもそもそんなことを、バー店舗(今ではこうした店のことだけを「コンカフェ」と呼ぶ人もいる)のメインユーザーが気にするわけもないのだが、世界観の鑑賞という視点がなくなったら、通常のガールズバーと大差なくなってしまうのではないか(もちろん、通常のガールズバーを否定しているわけではありません)。そういった理由から、古参のメイドカフェおたくとしては、昨今の「コンカフェ」はいささか物足りなく感じてしまうのである。

年齢的にもそろそろ仕事に本腰を入れる必要があること、自身の専門領域の技術が運よくブームになっていることもあり、2014年の後半に12年務めた会社を辞めて、思い切って転職した。そして、様々な事情もあり、2016年に秋葉原から代々木に引っ越した。僕は次第に仕事に没頭するようになった。やがて技術者をマネジメントするようになり、マネージャーをマネジメントする仕事をするようになった。そしてそのストレスから、残業が終わると先ほどいささかくさしたばかりのバー形式の歌舞伎町の「コンカフェ」に出入りするようになった。飲酒量は3倍近くになり、体重は10キロ以上増えた。気づけば僕は40歳になっていた。歌舞伎町のコンカフェは秋葉原にはない粗雑さと刹那さがあり、酔って疲れた頭にはそれくらいのチカチカした輝きがちょうど良かった。やがて僕は酔客の扱いに慣れたメイドからも「ほど加減にした方が良い」とたしなめられるほどには駄目な「ご主人様」になっていた。シャッツキステの閉館の知らせをツイッターで見たのはそんな時だった。

かつて毎週のように通っていたシャッツキステには年に2、3回行く程度になっていた。それでも、秋葉原に行けばシャッツキステがあるという安心感がどこかにあった。歌舞伎町のコンカフェでどれほど酔いつぶれても、誤解を恐れずに言えば、シャッツキステとはメイドカフェあるいはコンカフェに通うことの「大義名分」を与えてくれる「護符」のようなものであると漠然と考えていた。何という調子の良い話だろう、と自分でも思う。けれども、そのシャッツキステがなくなるらしい。今でも上手く想像できない。

閉館の知らせがあった後、僕はメイドカフェ好きの若手フェミニストの知人と話をする機会があった。「ほとんどのコンカフェでは設定が形骸化しているけれども、シャッツキステだけは通っているお客さんにここは私設図書館であるという共通の認識があるように思う」と彼女は言った。リアルな空間におけるフィクションをメンテナンスしていくのは大変なことだ。そこに参加する全ての人に「これはフィクションであるけれども、そうであるがゆえに大切にしなければならない」という繊細な気持ちがなければ、フィクションは瞬く間に壊れてしまう。フィクションが成立するとは、そこに集う人たちに一種の美意識が共有されるということである。

振り返れば屋根裏の時代が3年であるのに対して、図書館の時代は仮に来年の3月まで営業するならば12年であり、4倍の長さである。屋根裏が駆け足で通り抜けた思春期のような時代だとするならば、図書館とは青年期・壮年期であり、どこまでも間延びし続いていく平坦な時代だった。それが新型コロナウイルスという何の情緒もないアクシデントによってぶつ切りで終わるのも、図書館の終わり方としてはかえって適切であるように思う。しかし、とにもかくにも、図書館は12年もの間、秋葉原の地でフィクションを維持してきた。それが運営側のどれほどの苦労の積み重ねの上に成立しているか考えただけでもゾッとする。

先週、シャッツキステは「屋根裏の開放と回想」という3日間のイベントを開催した。かつての屋根裏で期間限定の営業を行うという内容で、当然僕も申し込んだが残念ながら抽選からは外れてしまった。驚くべきことは、屋根裏が11年半前の姿のままこの世界に実在していたということである。おそらく物置か何かとして使っていたのだとは思うが、きっとエリスさんは屋根裏を壊すことができなかったのだろう。そこには何か、通常の経済的な原理とは全く異なる、シャッツキステ(あるいは有井エリスという人)の美学があるように僕は思う。

最後に「ともしびの物語」の結末を紹介して終わろう。かつての若旦那であった老人のために、メイドたちは老人が若き日に憩いの場であった屋根裏部屋を再現する。しかし、未完成だった絵を描き終えて屋根裏を完成させた老人は、メイドたちに感謝しつつも、「ここへ来てしまうと私は、過去と現在をごちゃ混ぜにした都合の良い思い出に浸り、自分の弱さから逃げてしまう」「おまえ達はわたし(ママ)に始めることの大切さを教えてくれた」と言い、いささか唐突に旅へ出てしまう。そして物語は、「これは物語の終わりじゃない。私と、君達とそして私たちの『宝箱(シャッツキステ)』の始まりの物語なんだ」という老人の言葉で締めくくられる。問題は、「旅に出た老人は何を始めるべきなのか」ということである。その問いは、ほとんど手つかずのままごろっとした質感を伴って僕(たち)の前に投げ出されたままである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?