活人マシーン誕生秘話①挫折と絶望
こんにちは😃
令和の活人マシーンTAKAです。
私は現在、名古屋で自律神経専門の鍼灸院を営んでおり、日々多くの悩める患者さんに希望の光を灯す仕事をしています。
私が今に至るまでには壮大な誕生秘話があります。
1回のブログでは語り尽くせないので何回かに渡ってお伝えしたいと思います。
そんな記念すべき第1回目は
私が人生で一番に挫折して、絶望感を味わった頃の話をしたいと思います。
私は実はもともと、サラリーマンでした。
それも大手金融機関の営業マンでした。
私が就職活動していた時代はリーマンショックの打撃で就職難が続いた時代でした。
そんな中でも、運良く大手金融機関に入社できました。
大学卒業後、その金融機関に就職して、最初の配属先は全国で一番大きな北海道の支店で、さらに最大の営業成績を出している部署に配属になりました。
最初の1年は見習いでしたが、2年目からは石狩地区(札幌を中心とするエリア)の中小事業者の貸付担当になりました。
その1年間の営業実績を評価してもらい、翌年には北海道全域を担当する精鋭部署に移してもらえました。
精鋭部隊なだけに1年間苦労して、仕事を覚えて、上司や先輩に認めてもらえるようになりました。
数億円規模の案件を任せてもらえるようになりました。
やりがいもあったこの仕事で、大きな仕事にも関われるようになったことに、人生が前進していってる実感がありました。
順調に見えたこの人生
しかし
25歳の時に大きな挫折と絶望感を味わうことになりました。
それは
ある日、営業車を運転している時に先輩に
『あの看板を右に曲がって』
と言われたのですが、
私の目には全く見えなかった…
そして、通り過ぎてしまい先輩に怒られる
こんな出来事がその先、幾度か起きました。
今思い返せば、誤記や数字の見誤りも起こしていました。
金融マンとして数字のミスは命取り
何度も肝を冷やすような場面になりました。
『注意不足』
という評価を受けるようになり、上司や先輩からは冷たい目線や叱咤を受ける日々が続きました。
『どれだけ注意してもミスはでてしまうのは何故なんだ!!』
こんな悩みから眼科で検査を繰り返すようになりました。
数々の病院をたらい回しにされて
7つ目の北海道大学病院にて知らされた事実
現代治療法のない目の難病
そして、治療法がないことから医師からは今後の治療の説明や他の可能性も伝えられず
『経過観察するしかない』
この一言で診察は終わりました
病気が見つかったことから、私は今までの不可解な状況が納得できたとともに、
治療法がないということに絶望を感じました
今後の人生お先真っ暗になり、大きな挫折を味わいました。
ショックのあまり、病院からの帰り道は頭が真っ白になり、
どん底の気持ちで赤信号さえ気にせず歩いてしまいました。
その後、悩みに悩み
今後、金融営業マンとして最前線で働けなくなることを悟り
そして、退職を決意しました。
とてもやりがいのあり好きな仕事を辞めることになり、大きな挫折を経験しました。
次回に続く…