全員が主人公?
ある幼稚園でのごたごた話のことを書いた記事を見かけました。
お遊戯会での出し物が「桃太郎」に決定し、その配役を決めた段階で親からクレームが入ったそうです。
「なんでうちの子がサルなの?」
「どうしてあの子が主役の桃太郎なの?」
みたいなことです。
どうしても折り合いがつかず、最終的には全員が桃太郎を演じることで決着したそうです。
そんなアホな!です。
確かに誰からも文句が出なさそうな解決方法ではあります。
現実の社会では全員が大谷翔平のような誰からも注目されるヒーロー的存在になれるわけではありません。
なので、せめて劇の中だけでも自分の子供をヒーローにしてやりたい、その姿を見たいという親心は分かります。
しかし、これでは学びがないと思うのです。
サルやキジには鬼と戦う時の桃太郎のサポート役と言う大事な役回りがあるわけで、脇役を演じることによって子供はいろいろと感じ取っていくと思うのです。
大げさに言うと、演じる役を通して見える世界観というものがあるはずで、それを学ぶための手段としての演劇があると思うのです。
話は変わりますが、私の小学校時代、掃除当番で誰が班長(リーダー)をやるかを名前の五十音順で決めたことがありました。
担任の先生がそのように指導してそうなったのです。
ですので、班長になった子は、それに相応しいかどうかは分かりません。
しかし、班長は誰が床を掃いて、誰が机を拭くかを指示したり、終了の合図をしたりします。
班長以外の子は班長の指示に従って掃除をします。
班長になった子はリーダーとしての役割を通して色々と学びます。
班員の子は班長の指示が気に入らないかもしれません。
どうしても嫌な割り当てだったら、変えてもらうように班長に交渉するかもしれません。
ひょっとしたら喧嘩になるかもしれませんが、そういう経験を通してお互いに学んで行けるのだと思います。
全員がリーダーでは効率的に掃除ができず、学びも無いのです。
私のようにこんな面倒くさいことを考える親ばっかりだったら幼稚園でも揉めごとは起こらなかったと思いますが、そういう人はあまりいないかもしれませんね。
ただし、演劇や学校での学習と実社会は同じではありません。
実社会でも様々な職業や家庭、地域社会での役割があり、いろいろ経験することは勉強になります。
しかし、最終的には自分の魂が一番喜ぶことを見つけて、それをライフワーク(収入が発生するしないは別)にすることが大切ではないかと思います。
作家のマーク・トウェインは、
と述べています。
スピリチュアル的に言うと自分の望む人生を自分で創ることができるわけであり、そういう意味では一人一人が人生の主人公なのです。
もちろん物語のヒーローのような存在になるという意味ではありません。
自分が自分の人生にどれだけ価値を見出せるか、人生をどれだけ幸福感で満たせるかは自分次第であると思います。
上司や部下、家族は関係ありません。
自分が変われば周りの人や周囲の環境は変わります。
私は体験を通してこのことを学びましたので断言できます。
こういう心の中の話を文章にするのは本当に難しく、まとまりのない話になりましたが、何かを感じ取っていただければ幸いです。
おしまい
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