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1989年大河「春日局」vol.5 太陽!ゲスト女優番外編002大原麗子。 家康の子供たち。孫。秀忠の息子、息女。

家康の子供たち。孫。秀忠の息子、息女。

徳川忠長(とくがわ ただなが)
(国千代→徳川忠長)
演:斉藤隆治 

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斎藤由貴の実弟

※当初は堤大二郎の予定 
(幼少〜少年期:岩下謙人→橋本光成→雨笠利幸)
秀忠・お江与の次男。家光の弟。
幼名は国千代(くにちよ)。
兄と違い、母・お江与の手元で育てられ、
一時は兄に代わって徳川家の嫡男になるのではと
言われていた。

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◆そうしてはならないと、春日局は、いや、
お福は御手打ち覚悟で、家康に皆がいる前で、
次期将軍は国千代ではなく、竹千代だと
認めてほしいと、直訴した、と言う逸話がある。

◆慌てた家康は駿府から江戸に大急ぎで
舞い戻り、皆を集めた。秀忠、お江与、福や
他の大名たちが見守る中で。

「菓子を進ぜよう」と言う家康に
竹千代と国千代が御前に進みでるが、
国千代に対して、「お前は下がれ!」
「国千代、お前に申してはおらん!」と。
何事も長男が先。弟はいつも臣下である事。
これを肝に命じよ!同等と思うな!と。

と言う逸話あり。創作かも知れない。

この件は、お江与が、福が企んだ事とし
一時お福を恨んでいく。
また家康も恨むようになっていく。

結果は家康が「長幼の序」を重んじ、明確にし、
これ以降、竹千代の世継決定が確定した。
これは、春日局を描くドラマ等では、
必ず取り上げられる名シーンです。

後世の制作した逸話と言う話ともあるが。


秀忠の御落胤

保科正之(ほしな まさゆき)
(幸松→保科正之)
演:藤井司(幼少期:佐々木一成)
秀忠と侍女・お静との間に生まれた庶子。
幼名は幸松(こうまつ)。

◆幸いを待つ、の意味だと秀忠が命名した。
浮気の発覚を恐れた秀忠の依頼を受けたおふくに匿われ、
保科家の養子となって育つ。長じて
兄・家光との対面を果たし、彼の家臣として取り立てられる。

◆保科正之は、次期大河ドラマ主人公候補に
なって欲しいと筆者は希望している。


✅秀忠の娘たち。家康の孫娘たち。

珠姫(たまひめ)/ 勝姫(かつひめ)/ 初姫(はつひめ)
演:山辺江梨(珠姫)/ 吉川京子(勝姫・幼少期:真嶋彰子)/ 歌代未奈(初姫)

これも秀忠の娘たち。
なお、家光・忠長の姉たちである。

秀忠の娘だが、家康は政略結婚の道具駒に使っていく。

秀忠の次女が珠姫
◆珠姫は、3歳で嫁入り。家康の命で
泣く泣く父母と別れさせられて、
一度も再会する事なく、数奇な運命を辿り、
数え24歳でこの世を去る。

秀忠、お江与は大反対するも、家康には逆らえない。

帥の事を考えての事で、この縁組を考えた、と言われ。

◆秀忠の三女が勝姫 三女で徳川家康の内孫
慶長16年(1611年)9月5日に江戸を出発し、11日から18日まで駿府で祖父・家康のもとで饗応を受け、

9月28日に越前国北荘で]福井藩主忠直(伯父・結城秀康の嫡男)と結婚した。

1601年産まれで、10歳で嫁ぐ。


◆勝姫は大変気の強い女性だったといわれる。
勝姫の孫に当たる国姫(光長の娘)を福井藩の松平光通に
嫁がせるために強く工作を行い、さらに福井藩の後継者問題に
光長と共に強く介入した結果、光通と国姫が共に自殺、
光通の庶子の直堅が出奔するという悲劇を招いた。

◆尚、福井県の語源・由来
福井の地は旧称を「北ノ庄」といったが、寛永元年(1624年)、福井藩第三代藩主の松平忠昌氏が
「北」は「敗北」に通じるとして嫌い、
縁起の良い名前にと「福の居る場所」という意味で
「北ノ庄城」を「福居城」と改め、
元禄年間後期、現在の「福井」と改められた。

大河ドラマ「葵 徳川三代」で上記の理由を
結城秀康役の岡本富士太が家康の前で
「縁起が悪いので、北ノ庄を福井に変えとう存じます」
と述べているが、これは少しおかしい。

関ヶ原合戦後の慶長5年(1600年)に
徳川家康の次男・結城秀康(のちの松平秀康)が新たに北庄城を築城し、城主になる。

北庄城を拠点にして領地を支配した(越前北庄藩)。
寛永元年(1624年)、三代藩主・松平忠昌(まつだいら ただまさ)は北庄城の名称を、
上記の理由で「福居城(ふくいじょう)」に改称。

結城秀康が、名付け親ではない。
大河ドラマもよく間違いをするので、要注意。
誰がドラマの時代考証をしていたか?これが、
キーポイントです。


☪️今回2022「鎌倉殿の13人」も少しおかしい
描写がありますね。北条政子は頼朝存命の時に
「政子は、、」とは言いませんし、「おい!政子」とは頼朝も呼ばないです。
「吾妻鏡」を基本に描写していると思いますが、
現代語の乱発が多すぎです。
これでは、往年の大河ファンは離れて行きます。


その後「福井城」の名称も用いられるようになり、
江戸時代中期の元禄期ごろからは福井城の名前が基本になった。


結城秀康は、家康の次男。結城家に養子に。
だから徳川は名乗らず。享年34。
死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、
梅毒ではなかったかとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。

よって弟の三男秀忠が、二代目将軍となった。


勝姫に戻ります。

◆だが、林鵞峰(林羅山の子)は、勝姫の死を知った際に
その人柄を「斯人少而寡、守節不妄言」(この人は若くして
寡婦となったが、貞節を守って言を妄りにすることがなかった)と記している。

完子は異父姉、千姫・珠姫は実姉、徳川家光・徳川忠長は実弟、保科正之は異母弟、初姫・東福門院(和子)は実妹。

◆上記の完子(さだこ)は、豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、徳川家光の異父姉、明正天皇の伯母にあたる。

◆父は豊臣秀勝、母は江。初名は不明である。
文禄元年(1592年)1月ないし2月24日に誕生(『以貴小伝』)。
同年、文禄の役で秀勝が病死する。

◆母は、一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。
最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。

2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、
娘の完子は、姉茶々の猶子となる。
3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。


◆徳川秀忠の四女が初姫

京極忠高とは又従兄妹の関係に当たり、忠高に嫁入り。
また、徳川家光は弟にあたる。


◆徳川秀忠の五女

和子(かずこ)中宮となってからは、
宮中が濁音を不吉だとして、
和子(まさこ)に呼び名が変わる。漢字は同じ。
(和姫→和子)
演:はかま梨沙
(幼少〜少女期:内野真理子→片山美穂)
秀忠とお江与の娘。家光・忠長の妹。後水尾天皇の中宮となり、
女一宮(明正天皇)や高仁親王を産む。


◆これもまた千代姫と同様に、
現代の天皇家に繋がります。

長女の千姫と混同しないで下さい。


即ち、現在の天皇家は織田家の血を引いている
事になるのです。お江与が織田家の血を受け継ぐからです。

全てお江与(お江)が産んだ娘達です。

またもう一人、千姫が長女である。

また

2012年、京都西本願寺で
春日局の直筆の手紙が見つかる。
自分の奉公人の母が西本願寺にいると知り、
自ら筆を執り良如に
「(部下を)母親に会わせ、西本願寺で
奉公させてもらえたら大変ありがたい」と
頼んでいる。彼女お福の優しさや母性が
垣間見える貴重な史料とされている。

同時代の僧侶

良如(りょうにょ、慶長17年12月7日(1613年1月27日)
- 寛文2年9月7日(1662年10月18日))は、
江戸時代前期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第13世宗主。
西本願寺住職。

斎藤福
春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、
天正7年〈1579年〉 - 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)

次は、いよいよ徳川家家臣たちです。

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