僕は思い上がっているのかもしれない



一瞬の好きを勘違いして、僕は人から好かれる人間だからと
「今」自分の事を好きでいてくれる人、
「今後」好きになってくれる可能性のある人を排除しているのかもしれない。
いつからか数だけを大切にして、質を排除していた。

僕の事を理解している人にだけ理解されればいい。
僕の事を好きだと言う人を大切にすればいい。
僕の事を認めてくれる人にだけ感謝の意を唱えればいい。
そんな、しょーもない考えをしていた。
いや、してる…かも。

いつからだろう。
自分は昔からこういう人間だったのか、
自分はどういう過程を経て、こういう人間になったのか、
その過程はどこなのだろうか?

子供が石を投げて、何かに当てたり、当たりかけて怒られたりした時の感覚に近い。
あの時は素直に謝って、それはダメなんだと思っていた感覚が今の僕にはなくなっているのかもしれない。
悪いと思った事に素直になれない自分。
反省をする、謝罪をするという行為が、
恥ずかしい事、負けと思ってしまう、俺がそもそも悪いのか?
という、言い訳ばかりで頭を埋め尽くす。
客観的に見た自分は驕っているとわかっているのに、色々な経験を積み重ねた自分はその奢りを認めきれない。

色々な場面で非難・称賛を経て、他人から好き勝手言われて意固地になっているのかなと思う。
称賛の方は聞けば良いと意固地になっているのかもしれない。
だがしかし、それは間違えたと思う。
自分の芯を持って進み、他人の人生にケチをつけたりせずに、他人から石投げたらダメだよって言われたら、「なんで?」と聞いたり、その上で謝れる人間でいよう。
というか、そういう人間でなければいけない。

いま、自分の芯を無くしていて、他人からの評価というちっぽけな自信を無くしているから、魅力がなくなって、魅力というものを考える。
でも、僕の魅力というのはガムシャラな真っ直ぐな姿勢なのだろう。

自分の社会からの価値、評価ばかり考えて、本質が見えていないのかもしれない。
自分の事を好きでいてくれる方々、大切にしてくれる方々は僕のどこを評価してくれているのか。
そこに僕の本質・大切なものがあるのではないか。

自分という人間が自分だけで成り立っていると思ってるのかもしれないが、出会いの中で様々な方々に出会って今に至っている事を忘れてはいけない。

好かれたい、好かれなくても良いという痴がましい気持ちは捨てて、
素直な気持ちで受け止めて、色々考えよう。

この先に自分自身が見えてくるのかもしれない。
他人に優しく出来る人になろう。
考え方をアップデートしよう。
ダメなものは捨てよう。

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