「台湾行っての失敗と今想う事。」

台湾生活では、焼肉屋を起業する予定だった友人S(オーナー)との関係性が悪化して、日本帰国を考える事になった。
辞める決断に至った僕の苦悩、周りの方々の優しさ・救いの手を差し伸べてくれた感謝の日々、これからの生き方・仕事の考え方を書き残そうと思う。

9月9日に北九州空港発、台湾行きのスターフライヤーで飛び立つ。
ゲストハウスの店長で公私共にお世話になっている方(あだ名は番頭)のご好意で北九州空港まで車で送ってくれる事になった。
昼過ぎまで、最後になるかもしれない小倉の街を散歩していると、平日にも関わらず、そのゲストハウスの常連で、門司港の焼きカレー屋を営むおっちーと遭遇した。
「もう台湾行ったんじゃないの?」と聞かれたので、
「3時間後には台湾便乗るよ。」と答えると、地元の定番めしである、資さんうどんへ一緒に行きご飯を奢ってくれた。
この後もそのゲストハウスの常連夫婦が見送りしてくれて、番頭と空港へ行きました。
寂しい感情を頂く暇もなく、北九州との別れが来ました。

そう、僕は常に人に奢って頂いたり、何か貰ったりで生計が成り立っている。
ありがたい日々です。

19年2月中旬からの北九州生活は、このゲストハウスのお陰で退屈する事も、寂しくなる事もなく、あっという間に半年が過ぎてました。

台湾に着くと、そんな仲間との別れからか、これから1人で戦い、気軽に愚痴を言ったり、一緒におふざけが出来る仲間がいないんだなとしんみりなった。

到着次第、友人Sのマンションに向かう。
台湾では、オーナーでもある友人S夫婦のマンション2階部分の空き部屋になっているので、その1室に住むようになる。
マンションに着き次第、友人Sに焼肉屋の開業計画が遅れているが、今後どんな動きになるか聞いた。
「焼肉屋開業の為に投資家5人必要だけど、今4人いるし、後1人だから2,3人候補がいるから、お金の面は大丈夫。VISAも別会社で発行するから心配するな。」という事でした。

台湾移住2ヶ月前に前職の関連食肉卸会社の現地法人社長から、
「複数人でやるのは危険だよ。給与面の話しっかり話したの?VISAはどうするの?」言われた。
今まで騙されてきた日本人を沢山見てきたので僕のことを心配して頂いての指摘でした。

日本に帰ってきた今ではその言葉がとても染みています。
今思えば、しっかり条件面を話して、摺り合わせして、それが出来なかった時どうするのか?をぶつかりながらでも、擦り合わせして、お互いの強みを発揮出来るようにしなければならなかった。

台湾生活が始まると、友人に連れられて食事に行ったり、お酒が飲めない友人の代わりに飲み屋紹介して頂いたりと現地の知り合い作りから始めた。
僕という人間を知ってもらい、知り合いを沢山作り、焼肉屋に来店して貰わなければならないと考えた。
出資のお金は出さないという話ですが、この焼肉店は、僕が責任持って、切り盛りする、僕を目掛けて来店して貰うことが大切だと思ってた。

焼肉屋開業までの間に別のビジネスで唐揚げのイベント出店をやってました。
9〜12月までの間に旅行展示会などで、月1回イベントが入っていた。
友人Sから、このビジネスはおぎに任せたいと言われたが、正直やりたくなかった。僕は唐揚げを揚げる為に前職を辞めて、焼肉の修行を辞めて、台湾に来たのではない。
古い考え方かもしれないが、僕は本業である焼肉開業を軌道に乗せてから別事業をやるべきだと考えていた。
この考えを友人Sに言うと
「じゃあお前どうやって稼ぐんだつもりだ。」と言われた。
正直稼ぐあてもなかったので、渋々やるかと思った。

これが僕の間違えだ。やりたくないならしっかり言わなければいけない。
やるなら全力でやらなければならない。
焼肉開業に向けて、今まで関わってくれた人の顔も思い出しながら、なぜ俺は今唐揚げ揚げている?いつになったら焼肉屋開業するんだという気持ちで焦りが生まれた。

10月から1ヶ月間だけ中国語の語学学校に通い出した。
クラスには、チェコ、ハンガリー、インド、インドネシア、ベトナム、日本の6カ国の人種がいた。
クラスメイトは皆、良い奴で楽しかった。
言葉は通じないが、くだらない事や、中国語の発音が難し過ぎて間違えると、皆で笑って、皆で教え合った。
笑う事の大切さを強く感じた。
間違うことは恥ずかしいと思う日本人が多いが、間違ったら笑えばいい。
そして恥ずかしがらずにガンガン失敗して笑って貰えばいい。
そんな気持ちになれた。
間違えた人を責めるのではなくて、爆笑する世の中になればいいのにと思った。

学校も終わり、日系デパートのイベントが始まったのだが、僕が高熱で倒れてた。
その時に友人から言われた一言は
「焼肉屋はお前しか回す奴がいないのに風邪引いたらどうするんだ。なんで体調が悪化する前に言わないんだ。」と言われた。

居候で暮らしている為、日常の生活全てが監視されていた。
心の休まる時もない、台湾生活も馴れない、いつになったら焼肉屋開業するんだとそんな気持ちが膨らんでいた。
イベント中は風邪で休んだ1日以外は17日出勤した。
基本毎日、僕とゴーちゃん(友人S奥さんの従兄弟)の2人勤務で朝の10時〜夜10時までの勤務だった。

イベントが終了して10日後に店の運営と給与の事について友人と衝突した。
9月のイベントでも収益が上がらず、ゴーちゃんには給料出すが僕には給料がな買った。
8月からイベント出店をしているが、その時に話したのは、利益の30%が僕の給料という話だった。
その話が継続していて、イベントの出店は赤字だった為、給料は出なかった。
友人Sは1日勤務、僕は17日勤務だったのに、その給与配分は、あまりに酷いんじゃないかと思い文句を言った。
友人Sは「じゃあ、おぎは売上上げる為に何か考えたのか?売上これでいいと思ったんじゃないか?そんなじゃ売上なんて上がらない。焼肉屋の店長もお前以外で探す。」との事だった。

最後に言った言葉は「お前働き先あるのか?」だった。

僕の仕事辞めさせる時には、
友人Sは「早く辞めろ、すぐに店をオープンする、そんな暇はない、事業失敗しても俺と働こう。」と言った。
早期退職(退職金が後2ヶ月で貰える時期)したのに、何とも心ない一言だと思った。
この時、僕は付いて行く人を間違えたのかと思い、苦悩と葛藤があった。


11月中旬から以前のイベントを通して仲良くなったお好み焼きオーナー(ヒロさん)のお店で働き出してました。
バル業態のお店で、サーモン切ったり、肉のカルパッチョの仕込みをしたり、基本的な仕込み業務及び清掃の仕方を教えて頂きました。
ヒロさんは友人Sとの衝突についてや、焼肉開業の話について親身に相談に乗ってくれた。
次の12月のイベントは行くつもりはなかったが、ヒロさんに「このシフトは一応休めるようにして下さい。」と話をしてました。
文句はあっても友人ですし、約束していたので、僕が行かないと困る事もあるだろうと思ってました。
12月のイベントが近づいてくると、友人の奥さんから「給料も払うので働いて欲しい。」と言わましたので、心良く引き受けた。

でも、また12月のイベントでも問題が発生した。
友人の奥さんの弟と何気ない会話をしていたが、中国語が分からずスマホで検索していると、友人が回し蹴りで、僕の尻を本気で蹴ってきた。そして激怒されました。
「お前の中国語の勉強の為に金払ってねぇ、ふざけんな。そんなんだから売上が上げらないんだよ。」
と言われました。
完全に奥さんの弟は怖がっていたので、「平気だよ。」と僕は言った。

その後にLINEで謝罪文が友人Sから送られてきた。
念頭だけ蹴った事の謝罪はあるが、つらつらと僕への指摘・悪口が書いた文だった。
僕は、その友人Sの事を本当に大人げないと思った。
こんな暴力を振るう人でも仕事をする能力があれば、日本法人社長って出来るんだなと呆れ返った。
(友人Sは33歳で大企業の化粧品会社の台湾社長で着任して4年働き、転職して、独立して今に至ります。)
この時には僕の心は離れていた。

お店開けると言い、お金を集めれないのも、仕事も回らないのも人のせいにしていたが、友人Sには権力はあったが魅力が本当にあったのか、疑問に思った。
僕は友人Sの優しさが昔は好きだったが、権力を入れ性格が変わった?と僕は考えるようになった。

そんな中でも僕はギリギリまでは頑張りたいと思ったが、
1月中旬に友人Sから「家から出ていけ。」と言われて、そんな関係にもピリオドが打たれた。

そんな友人Sとの衝突の中、1月5日に佐藤さんという女性と出会いました。
佐藤さんとはBAR KANONというお店で出会い仲良くなった。

僕は何回か行った事あるが、その日は初めて1人で飲み行きました。
閉店間際に佐藤さんとお笑いの話で盛り上がり、前職の話を聞くと、まさかの前職が一緒で、しかも渋谷で働いていた同期の先輩でした。

その後、佐藤さんが経営されてる豚丼屋に遊びに行ったり、佐藤さんの仕事の話を聞いたり、僕の悩みを聞いてくれたりで週3回ペースで会ってた。

佐藤さんのお陰で、多くの台湾に住む日本人の方々と仲良くなれて、一気に輪が広がり台湾生活の最後1ヶ月はとても楽しかった。
よく呑みに行ってたが、呑み行った先のお店のオーナーさんから台湾での飲食店開業のきっかけの話を聞いたり、今後やりたいビジョンを聞いたりしてました。
現時点でやりたい事を失ってしまい、何もない空っぽの自分には眩しい存在でした。
佐藤さんは「おぎにはおぎの良さがある。」と励ましてくれた。

2月中旬に前職の上司である児玉さんが台湾に仕事で訪れた。
児玉さんは10名来られるという事だったので、僕がお店のセッティングをして同席しました。
そして、2次会でBAR KANONに行った。
その日は佐藤さんが一人で飲んでいたので児玉さんを紹介した。
僕が席を外している間に、児玉さんからおぎの事を心配していると聞き、
佐藤さんは「絶対に元気にして、おぎを日本に帰らせる。」と言ってくれた。
そんな話を後で聞き、僕は目頭が熱くなりました。

他人から見ると、僕の台湾生活は語学も伸び切らず、ただ飲み行って、遊んで、友人から騙されて、とんだ笑い者なのかもしれない。


でも、僕は今思う。
この友人から言われて嫌だった事も、佐藤さんからして頂いて嬉しかった事も、学校で他の国籍の友人と過ごした日々も、次に仕事に繋げると思ってる。

自分がされて嫌だった事、やる気をなくした事は絶対部下にしない。
嬉しかった事は部下にしてあげよう。
様々な考え方があるということを認めて尊重しよう。

その為にも、上司という立場に僕は行かなければならない。
僕みたいな人を救う為に僕はマネジメントする立場になりたい。
今やりたい事は見つかってない、僕のやる気はローソクのように火が消えそうだった。
帰国前に台湾で人の優しさに触れて、火が湧き上がってきた。

僕は人に比べて恵まれていると思う。
なぜ、皆から優しくされているかは理由はわからないが。
僕は決意している事がある。

次は僕が佐藤みたいに人に優しくする番だ。
佐藤さんは台湾で出店するまで、沢山苦労があったが、だからと言って後輩に偉そうな態度は取らない。懐がデカい人だ。
僕は次に僕みたいな人が現れた時に優しくする。

佐藤さんから言われて響いた言葉がある。
「おぎより能力もあってチャレンジしたいって言ってても、不安もあって、やらない人が多いんだよ。そんな中自分の地位を捨てて、誰かの為、自分の為にチャレンジしようとした、仕事を辞めた時の気持ちは絶対忘れちゃダメだよ」
と言われました。
この言葉に救われた。

僕の台湾でのチャレンジは大失敗だ。今は。
でも今後どうなるかも僕次第だ。
絶対にこの経験を生かすんだ。

この1年、皆が優しくしてくれて、応援してくれたのに、何もせずに日本に帰国する事になって、めちゃめちゃ不甲斐ない。一人で泣いた回数も数えきれない。
でも、応援してくれた人の次の期待を裏切らないように、この経験を糧に次に向かおう。
腐らずに、人の為に、世の為になる事をしたい。
僕は起業するか、大きな会社で働くかは決めてないが、マネジメントする立場になりたいと今強く考えている。

次のステージへこの気持ちを持って進むんだ。
この1年で出会った人、これから出会う人に恩返しをする番だ。

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