見出し画像

台北・北投温泉

私が初めて北投へ行ったのは、2度目に台湾を訪れた時のことだった。もう5、6年ほども前のことになる。台北にも温泉地があると聞き、昼は遊びまわって夜は宿泊地の近くで温泉に入れたら最高じゃん! と安直に考えて、北投駅近くのホステルに宿をとった。恥ずかしながら、当時は北投に温泉があるというざっくりした情報以外のことは、ろくに調べもしなかった。北投は北投でも北投駅と新北投駅と、北投と名前のつく駅が二つあるということさえ分かっていなかった。

そんないい加減な旅行の仕方でもまぁなんとか目的は果たせるもので、ホステルのお兄さんに聞いたところ、そのホステルから5分ほど歩いたところに1軒、スーパー銭湯のような温泉施設があるということが分かった。ホステルの宿泊者が使わせて貰うことのできる20元の割引券ももらった。で、ホステルの談話スペースで知り合ったマレーシア人の女の子と連れ立って、その温泉施設へと向かった。夜の11時くらいのことだった。

24時間営業の温泉施設なので、そんな時間帯でもまだ幾人かのお客さんが湯船に浸かっていた。台湾の温泉は日本と違って若い人の利用率が低いので、マレーシア人の若い女の子は人目を引いたのだろう。その場にいた台湾人のお姉様方が彼女に話しかけた(彼女は中国語も英語も素晴らしく堪能だった)。台湾の温泉は一種の社交場のような所で、知っている人でもそうでなくても、気になることがあれば相手に話しかける。どこから来たの? から話が始まり、皆が彼女に話しかけた。中に流暢な日本語が話せる女性がいて、私も話に混ぜて貰うことができた。結構話が盛り上がっていたと思う。温泉で素っ裸でするお喋りは、心に分厚く着込んでいた衣服をすべて取っ払ってくれた。楽しくて、とてもいい思い出になった。

そんなわけで、のちに温泉地と呼ばれるのは新北投駅の周辺の方だということを知ってからも、北投駅近くのその温泉施設は私のお気に入りの場所となった。北投駅を利用する時は、大体その温泉にも寄ってから帰るようになった。北投駅の近くに老家屋をリノベーションした路易莎(LOUISA)があることを知ってからは、なおさらよく訪れた。9時くらいまで路易莎でパソコン作業をして、それから温泉に浸かって凝り固まった肩や首をほぐして帰る。中で誰かに話しかけられる日もあれば、誰にも話しかけられない日もある。話しかけられない時は肩までお湯に浸かりつつ、知り合い同士と思しきお姉さま方の会話をぼんやり聞いている。楽しげに話しているのを見、勝手に微笑ましい気持ちになっていたりする。

そんなある日のこと、例によって路易莎で作業して帰りに同温泉施設に寄った。洗い場で体を洗い、湯船に浸かる。台湾の温泉には台湾の温泉の入り方というのがあって、10〜15分ほど湯に浸かったら、一度湯船から出て少し休憩する。休憩するときは水分補給もしっかりして、少し体の熱が引いてきたら、もう一度湯船に浸かる。このサイクルを何度か繰り返す。今ではすっかりこの入浴方法の方が身に馴染んでしまって、その日も私は10分ほど湯に浸かったら一度外に出、水を飲んでちょっと休憩、というのを繰り返していた。

それをするうちに、1人の女性が時々ちらりとこちらを見ていることに気がついた。温泉には少し珍しい、自分と同い年くらいの女性だ。私は一言も発さなくてもそれと知れるくらい分かりやすく日本人顔をしているので、それで見られているのかな、と思った。スタイルを見られていることはまずないだろうな、とも思った(台湾人の女の人は、大体みんな私よりよほどスタイルが良くてセクシーな人ばかりだ)。気にはなったが別に嫌な顔をされているわけでもなさそうだったので、まぁ良いか、と放っておくことにした。

温泉施設に来てから、1時間半近くも経った。終バスの時間もあるし、そろそろ帰るか。そう思って、湯船から体を引き上げた。洗い場と一つになっている荷物おきの棚の前で体を拭いてジーパンに足を通していたら、先程の彼女も帰る頃合いなのか、隣にやってきた。ふと視線をそちらへ流すと、彼女とパチリと目があった。と、彼女のふわふわとした可愛らしい唇が、小さな声で囁いた。

「あなたのジーツイ、曲がってる」

ジーツイ、という言葉の意味がわからず、私はしばし考え込んだ。ジーツイ……ってなんだったっけ。どこかで聞いたことがある言葉だが、日頃使う機会があまりないので、単語の意味が忘却の彼方へ行ってしまっていた。曲がっている。曲がるもの。へそか。へそが曲がっているのか。うん、それは自分でもよく分かってるぞ。

単語の意味を考えて黙り込んでしまった私を見、彼女は背中を指差して、もう一度「ジーツイ」と言った。そこで私は単語の意味を思い出した。ジーツイ……脊椎。背骨のことである。つまり背骨が曲がっている、と指摘されたのだ。心当たりは大いにあった。私は子供の時から筋金入りの脊柱側彎症だ。

「あなたの背骨、曲がってる。ものすごく」

「あー、背骨か。そうだね確かに曲がってる。……最近腰痛が酷いんだけど、そのせいかな?」

「うーん、そうかも。早めに病院へ行った方がいいよ」

彼女はどうやらその「病院へ行ったほうがいい」というのをずっと言いたかったらしかった。ありがたく思うとともに、大変に驚きもした。私と彼女は全くの初対面である。見も知らぬ、言葉が通じるかもわからない初対面の人間に、わざわざ病院へ早く行くようにとアドバイスをしてくれたのか。

「あなたは、お医者さん?」と聞いたら、「ううん、違うよ。でも看護婦だった」と彼女は言っていた。医療従事者ではなかったらアドバイスを聞かないという訳ではないが、とにかく私は彼女にたくさんお礼を言って、早めに病院へ行くことを約束した(後日ちゃんと病院へも行った。そしてわかっちゃいたが、背骨は曲がっていた)。

そのまま彼女と話をしながら服を着て、一緒にドライヤーで髪を乾かした。ドライヤーは、10元で1分間通電するタイプのやつだ。ドライヤー中の会話によれば彼女はこの近くに住んでいて、週に2、3回こちらの温泉に入りに来るとのことだった。私が泰山というやや辺鄙なところに住んでいることを話すと、ちょっと驚いた顔をしていた(泰山は北投までの交通の便が若干不便なのだ)。

そうこうする間に、ドライヤーの使用時間が残り10秒をカウントし始める。ドライヤーがあるエリアの大きな鏡越しに彼女の様子を見ると、相手も概ね髪を乾かし終えたようだった。3、2、1、とカウントダウンが終了し、ふっつりと黙り込んだドライヤーを棚の上に置いて、彼女と私は温泉施設の外に出た。彼女はひらひらと手を振って、またね、と言った。またね、と私も返した。私は北投駅の方へ、彼女は駅とは反対側の方へと、それぞれ歩いていく。

「……またね、ね」

帰り際の言葉を小さな声で繰り返して、それから私は、頬の内側の肉を噛んだ。初夏の生ぬるい風が、やさしく頬をなぜる。ひとり、顔がふやけそうになるのを必死にこらえて、北投駅へと続く道を辿った。またそのうち、彼女に会えたらいい。



台湾在住者による台湾についての雑記と、各ウェブサイトに寄稿した台湾に関する記事を扱っています。雑記については台北のカフェが多くなる予定。 そのうち台北のカフェマップでも作りたいと思っています。