罪を憎んで人を憎まず。論を斬って人を斬らず。

より 


上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:「論」と「人」を基準として議論・論争を四種類の型に分類する

〇「論」とは必ず「人」によって為される。誰かと議論・論争をする事になった場合の「論」と「人」への対応の仕方を考えてみたい。議論・論争の際の「論」と「人」への対応を次の四つの類型に分類してみる。①論を破って人を破らない。②人を破って論を破らない。③論も人も破る。④論も人も破らない。

〇【①論を破って人を破らない。】これは論は不当だが、友好的な人物や人間性・人柄のよい人と議論になった場合などが当てはまる。相手の人格を尊重しつつ、主張の中で道理に合わない部分は論理的に批判する。追及者同士の議論で片方が思想ツールに騙されかけている場合の議論もこのパターンだと言える。

〇【②人を破って論を破らない。】論の内容はまともだが、道理に反する言動をする者への対応はこれである。如何に正しい事を述べていても、人を見下したり傷つけたりする者は、その言動を批判されても仕方ないであろう。また、部分的に正論を述べつつ裏組織に取り込もうとする工作員への批判も②の類型。

〇【③論も人も破る。】対工作員戦の大半がこれである。工作員は論が不当なのは勿論、言動も道理に反する(罵倒する・侮辱する・嘘を流す・粘着する等々)という、論も人も最低最悪の〇ズが多い。そもそもまともな人間は妨害工作員になどならない。こういった相手に対しては論も人も破る③の対応が妥当。

〇【④論も人も破らない。】これは見識の高い陰謀追及者との対話や意見交換が代表例である。見識の高い人は人柄・人間性も素晴らしい場合が多いと感じる。最も理想的で有意義な類型だと言える。個人的には最も多いやり取りである。学びを得たり、自分の言を敷衍して下さる素晴らしい意見を頂く事が多い。

〇これとは真逆に、反証不可な形而上学的見解(宗教・オカルトなど)を前提とする主張をしてきたり、言動が正気とは思えない相手(薬〇中毒者ぽい輩など)に対して完全スルーするのも④の類型と言える。相手にするのが時間の無駄というタイプがいる。むしろこちらの時間を浪費させるのが狙いやもしれぬ。

〇④の類型でスルーするパターンでは、相手は必ずしも悪意を持つ人間とは限らない。善意で友好的な場合もある。このパターンは一番反応の仕方に困る。スルーしつつも、相手の人格・人間性への最低限の敬意と礼儀として「いいね」を押すという対応をする事もある。考えは違っても憎めない人の場合である。

〇論と人。論は破っても人は破りたくないというのが本心である。極力人は破りたくない。それぞれの人に人生の重み・思い・人格がある。辛い事だが、それを承知の上で破らねばならない時がある。だからこそ、その時とそうでない時のケジメを付ける為に論と人を基準に議論・論争のタイプを類型化してみた。

〇こうしておくと相手のタイプごとに適切な対応をするのに多少役立つと思う。「論」だけでなく「人」を破るのは相当な悪意と道理に悖る不当な言動を向けてきた相手のみ。そうでない場合は極力穏便に相手の人格を最大限尊重する対応をしたい。出来ているかは分からないが、そう心掛けて参りたいと思う。

〇知らない相手や接点のない相手から一方的に恨まれている事がある。大抵は異常な悪意や憎しみを向けてくる。接点がないので当然個人的な恨みではなく100%吾人の「論」に関する事柄である。両建批判をしているとこういう事がよくある。いつの間にか全方位的にあちこちから恨みを買っているという次第。

〇「人」を斬っているのではなく「論」を斬っているに過ぎないのだが、特定の思想やイデオロギーと人格が一体化してしまう程信奉している者からすると自分を否定されたかのように思ってしまうのかもしれない。確かに思想と人格は分かち難い面があるのも事実。だが、それでも批判せねばならない時がある。

〇相手が工作員なら尚更批判は必須。そういう連中とは違って「人」と「論」を分けて考えれば、例え考えや論説に多少の違いがあっても人と人は友好的に交流出来ると思っている。追及者同士で一致できる部分があれば多少の見解の違いはあまり気にしない。そもそも完全に同じ見解の人などいないであろう。

〇「論」と「人」を区別して議論・論争のタイプを四つに分類したが、この方法は様々な局面で役に立つと思う。例えば、陰謀宣伝者が部分的に正しい情報(論に含む)を暴露する場合がある。この場合は、陰謀宣伝者という「人」を破りつつ、部分的に暴露した正しい情報「論」を破らずに参考にする事が可能。

〇カルト系勢力が惑沈反対運動に関与しているからと言って、惑沈批判=カルトという事にはならない。カルトが惑沈反対運動をやるのは、いつもの両建戦術の一環に過ぎない。部分的な“正論”で釣って裏権力側に取り込む手口と分析する。この事も「論」と「人」を区別する視点があれば容易に分かる事である。

〇論と人を区別する視点がない為に短絡的な発想をする人は意外と多いのではあるまいか。例えば、「カルトが惑沈批判をしているから惑沈批判をするのはカルト」と短絡するなど。カルトが惑沈批判をする事があるからと言って、惑沈批判するからカルトとは言えない。論理学で言う「後件肯定の誤り」である。

〇「誰が言っているから正しい・間違い」という発想自体が危うい。人間的に信用出来る人でも論が正しいとは限らないし、怪しい感じの者が言うから論が間違いとも限らない。「論=人」という短絡的発想だと、トンデモキャラに正しい情報を言わせてその情報の信憑性を貶める手口に簡単に引っ掛かるだろう。

〇どう見ても怪しいオカルト系陰謀宣伝者に事実と合致する陰謀情報を喋らせる等、よくある手口である。また、「論」の内容自体も細かく正確に見ておく必要がある。論が大よそでは正しくても、細かく見ていくと変な場合がある。むしろ、思考誘導するトラップは細部にこそ仕掛けられている事が多いと見る。

〇もう一つ大事な事は、「論」を「ある人物が主張する内容の全て」と捉えるのではなく個別の種類ごとに細かく区別すべき事である。例えば、「惑沈に関する論」「経済に関する論」「国際情勢に関する論」「思想に関する論」などと分野・ジャンルなどで細かく分ける。こうする事で細かい評価が可能になる。

〇「論=人」という短絡に基づき「誰々が言っているから全部本当又は嘘」というような「0か100か」の発想は両建に嵌められ易い。極端に傾く「0か100か」の発想はカルト的思考の特徴でもある。論のどこが事実に合致しているかを細かく吟味して、合っていれば参考にし、合っていなければ否定すればよい。

〇「論」も「人」もよくよく見極める事が大切と思う。「論」(意見・主張・情報など)は事実や道理に合っているかを吟味する。人は人間性をよく見るべし。誰かを工作員認定するのはその人を非常に傷つけてしまう恐れがあるので、言われても仕方ない言動(一方的な攻撃や迷惑行為)をする輩のみ認定する。

〇論は誰でも間違う事があるので論のみで人を工作員認定する事はない(ただし組織的宣伝を行なう裏権力メディア・有名人・権力者は別である)。その場合は単に異論者というだけである。工作員とは「論」も「人」もよろしくないものである。異常な悪意・憎悪・害意・自己顕示欲を持っている場合が殆ど。

〇とは言え、思考誘導された為に意識的ではなく無意識的な実質的工作員にされている場合が多いのも事実である。左右両建両陣営の大半がその類であろう。不当な攻撃を受けない限りは個人を名指しして工作員と呼ぶ事はないが、思想ツールという「論」を通じて完全に走狗化する場合があるので要注意である。

〇工作員の特徴は「論」より「人」に色濃く表れると見る。工作員も部分的には正しい事を言う場合があるが、執拗・粘着・悪意・執念深さ・憎悪・度を越した自己顕示欲・野心・底意地の悪さ・陰険など嫌な空気感を漂わせている場合が多い。また、しばらく味方のフリをしつつ突然正体を表すタイプもいる。

〇論と人を分けると工作員のタイプに応じた対処をするのに役立つ。例えば、TPP反対を唱えつつ特定の裏権力派閥に囲い込もうと画策する工作員に対しては、TPP批判の部分は破らずにTPP批判をダシにして追及者を囲い込む工作活動を破るようにする。工作員がTPP批判してもTPP批判自体が間違いとはならない。

〇工作員とのバトルから「論争好き」と思われているとすると多少心外である。個人的には「論では一切の妥協をせず、人には極力柔軟・穏便に対応する」事を基本としている。相手と多少見解が違っても不当な攻撃とかでなく悪意や敵意が感じられなければ、一つの参考意見として受け取り極力穏便に対応する。

〇にも関わらず年がら年中論争している如き印象があるのだとすると穏便では済まない輩が多いというだけの事である。相手の性質を見てから論争するか否かを決めている。接点もないのに一方的に異常な敵意や憎悪を燃やしてくる異常者に対しては「穏便な対処」など不可能である。筆誅を喰らわせる他はない。

〇相手の悪意・敵意の度合いだけでなく強度も見る。論争時の言葉は「刃物」どころか「日本刀」と思っているので、相手に刀を向ける以上はそれに耐えられる相手か否かを見極める事にしている。これまでに最大限の筆誅を加えた相手は暴言虚言妄言を常とする悪党揃いである。まともな人間は一人もいない。

〇「悪」とは現代日本語だと「悪い」という意味しかないが、昔の日本語だと「悪」とは「強い」というニュアンスもあった。例えば、強い武者に対し「悪源太義平」などと名付けた如し。悪さと強さ(強度・耐久力)を持つ「悪党」と認識した相手の場合のみ論争モードの言葉=「日本刀」を向けるようにする。

〇常に「論には厳しく、人には優しく」でありたいものの、そうもいかない相手がいるのも事実である。だが、極力穏便に対応するというのが基本姿勢である。只の異論者との議論と工作員との論争の違いを明確に認識する為にも「論」と「人」を分けて議論・論争のタイプを四種類に分類するのは役立つと思う。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1412520156715126785


(了)

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抜粋終わり

>また、しばらく味方のフリをしつつ突然正体を表すタイプもいる。

この手のは面倒・・・でも斬るしかない・・・


ただ、ネトウヨでも、結構「いい線行っている」人が、数年前くらいまでは見かけれた。

今は、ネトウヨも、不景気が極まって、「いい線行く人」は、みんなまともな路線に転向した・・よかったのだが、今のはネトウヨの出涸らしみたいなので、相手にする気も無い。


>どう見ても怪しいオカルト系陰謀宣伝者に事実と合致する陰謀情報を喋らせる等、よくある手口である。また、「論」の内容自体も細かく正確に見ておく必要がある。論が大よそでは正しくても、細かく見ていくと変な場合がある。

あるある。


>「論=人」という短絡に基づき「誰々が言っているから全部本当又は嘘」というような「0か100か」の発想は両建に嵌められ易い。極端に傾く「0か100か」の発想はカルト的思考の特徴でもある。論のどこが事実に合致しているかを細かく吟味して、合っていれば参考にし、合っていなければ否定すればよい。

同感。

ただ、以前の日本の言論界でも「「0か100か」の発想」が多かったように思う。

なんかね~日本の言論界は、ほぼ「工作員だらけ」か「日本人は幼稚」かのどっちか・あるいはどっちもかもね。

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