三略 上 2


危険があれば安定させ、
恐怖すれば歓待し、
背けば戻し、
冤罪があれば赦し、
訴えがあれば調査し、
低い立場の者は引き上げます。
強いものは抑え、
敵対するものは撃ち、
むさぼるものは豊かにし、
欲するものは与え、
畏れるものは隠し、
謀略に優れたものは登用し、
讒言するものは誤りを覆し、
そしるものは誤りを復し、
反乱するものは廃し、
専横するものは挫きます。
満ちているものは絞り、
帰順するものは招き、
服従するものは受け入れ、降るものは許します。


考えようには「至れり尽くせりをしないといけないのか」

てなりますけど、窮地に陥っている人には切実で、その「恩」に向くようとするし、細かいケアを忘れると、組織や社会は、そこから崩壊しますよね。



固き場所に獲得したら守り、険しい場所を獲得したら塞ぎ、難所を獲得したら駐屯し、城を獲得したら部下に分け与え、土地を獲得したら部下に分け与え、財を獲得したら部下に分け与えます。
敵が動いたら探り、敵が近づいたら備え、敵が強ければ下手に出て、敵が充実していれば避け、敵が優勢であれば待ち、敵が激しければ疲れを待ち、敵が無道であれば正道で応じ、敵が連携していれば離間をはかります。
敵の挙動に応じて挫き、勢に因って破り、喧伝して貶め、四方に網を張って人や情報を集めます。

無論、敵に対しても、「至れり尽せり」で、対応しないと、こちらが勝利できませんよね。

味方・仲間に「至れり尽せり」ができないのに、敵を倒すのに「至れり尽くせり」の策・方法をとって、実行できるはずもないですよね。


利を得ても独り占めしてはなりません。得ても守り続けてはなりません。得ても長居してはいけません。敵が新君を擁立したら攻めてはなりません。
行動を指示したのは自分ですが、実際に得るのは部下であり、自分は実利を得ません。しかし部下はせいぜい諸侯にとどまるのに対し、自分はすでに天子なのです。城は部下に守らせ、統治は部下に委任するものです。

世間ではよく祖先を祀っていますが、よく下々の立場を考える者は少ないです。祖先を祀るのは親族の礼からであり、下々の立場を考えるのは君主の責務です。


先祖を祀れば、自分の身は守れるが、ほかの人たちを守れば、その人たちの長たり得る。

まあ、天皇など、先祖しか祀らんで、庶民は「そんな文学上の問題は知らん」で、居座っている。

まあ普通に滅びる国が日本ですは。


下々の立場を考えるとは、耕地を改善し、効率を高め、税を薄くし、その財を圧迫せず、兵役を軽くし、その労力を疲れさせなければ、すなわち国は富み民の暮らしも楽になり、そのようにしてから部下を選んで民を統治させます。
ここでいう部下とは、優れた人材のことを言います。ですからこのように言われます「優れた人物を広く集めれば、すなわち敵国は困窮する」と。優れた人物は国の根幹です。庶民は国の根本です。根幹を得て根本をおさめれば、すなわち政治が行われて怨むものは無くなります。

人々を大事にして「恨まれないようになる」と、当然、その人の言うことを人々は聞いてくれます。

そういう人が、その社会の「長」たりえるのは、普通の話です。


兵を用いるときの要は、礼を厚くして俸禄を重くすることにあります。礼を厚くすれば智者が集まり、俸禄が重ければ優れた人材も身を投げ出して働きます。ですから賢者の俸禄は惜しまず、功績を賞するに躊躇しなければ、部下は力をあわせ、敵国を破ってくれます。
人を用いる方法は、厚遇するのに爵位を与え、高揚するのに財を与えるようにすれば、すなわち優秀な人材が勝手に集まってきます。接するに礼遇し、奨励するに義を以て接すれば、すなわち優秀な人材は身を投げ出して働くのです。

人を大事にすると、当然に普通にそれにこたえようとします。

「国を・日本人を思って祈っている」とかほざいても、責任は取らず、庶民の貧窮・惨禍を「已む得ない」とかいう、外道鬼畜の天皇が、日本を支配しているので、当然に日本人は死滅していきます。


将帥というものは、日頃から士卒と飲食を共にし、苦楽を共にするもので、そのようにして敵との戦いに及ぶことができるのです。そうであればこそ兵は勝利し、敵を平らげることができるのです。
昔の話にこうあります「良將が軍を指揮していた時、酒を贈るものがおり、それを河に流して、兵士たちと河の水を飲んだ」と。ちょっとくらい河に流したくらいでは河の水から酒の味などしません。しかし、将のために身を投げ出して戦おうと思うのは、共に酒を味わおうとするその気持ちを受けてのことなのです。
《軍讖》にこうあります「陣中の井戸を掘っても水脈に達しないうちは、将軍は渇きを口にしない。陣の設営が終わらないうちは、将軍は倦怠を口にしない。軍の食事が準備できないうちは、将軍は空腹を口にしない。冬は着込まず、夏は扇子をつかわず、雨に傘をつかわない。これを将の礼という」と。
このように苦楽を共にすれば、部下は結束して離れることがなく、労を惜しまず働きます。それはつまり普段から恩恵を施し、普段から思想を一つにしているからなのです。ですからこのように言います「恩を与え続けて怠らなければ、一つのことで万人の味方を得られる」


苦楽を共にできない者のために、働くのは、難しい。

ましてやそのために戦うなど。


そのような外道を日本は150年続けています。


当然に日本人は死滅します。

参考

上記文抜粋・・・・・・・

 儒はこの時代の主要な学問であるから、こうしたイベントに兵士を参加させることは、兵士の教育に熱心であったことを示している。
 孔子はかつて「民を教えずして戦わせる、これを棄てるという」と述べた。兵士を教育してから戦わせることが肝要なのである。祭遵は、孔子の用兵を行っていたのである。
 人にもし立派な振る舞いをさせたいのなら、まず立派な人物として扱い、立派な人物であるという自覚を与えることである。相手を悪人であると見なして応対すれば、相手は悪人として振る舞うし、有能な人として応対すれば有能に振る舞う──これは心理学でいうピグマリオン効果として知られているものであり、集団に対したとき明確にあらわれる効果である。
 すなわち、祭遵は兵士を立派な士人として扱うことにより、兵士に志と自覚を与えその質を高めたと考えられるのである。だからこそ、祭遵の指揮がなくとも自らの意志をもって戦うことができたのであろう。

・・・・・・・・・抜粋終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?