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「幻想」に酔わないで、真実を生きている者の技。ていうか。
(12)
太宗が質問しました。
「竜、虎、鳥、蛇という四獣の名がつけられた四つの陣形は、さらに商、羽、徴、角という四音の名がつけられることもある。これらの陣形は、どんなものなのか?」
李靖が言いました。
「それらは、ただ単に人をあざむくために、意味ありげな名前をつけているにすぎません」
太宗が質問しました。
「そういったまぎらわしいものは、排除できるか?」
李靖が答えました。
「それらの名前を残すことで、そういった類のまぎらわしいものを排除できます。もしそれらの名前を排除して用いなければ、人をあざむくための別な方法が新たにあらわれ、めんどうなことになります」
太宗が質問しました。
「どういう意味だ?」
李靖が答えました。
「各隊に竜、虎、鳥、蛇という四獣の名前と、天、地、風、雲という称号をつけ、さらに商金、羽水、徴火、角木という四音の名前をそれらにつけ加えるわけですが、これらはすべて兵法家がむかしから用いてきた人をあざむくための方法です。これらを残せば、まぎらわしいものがよけいに増えるのを防げます。しかし、もしこれらの人をあざむく方法を排除すれば、欲ばりな人や愚かな人をうまく誘導して、こちらに有利な状況をつくりだす方法がなくなってしまします」
太宗はしばらく考えてから言いました。
「そのほうは、このことを秘密にして、外にもらさないようにしてくれ」
(11)
太宗が言いました。
「たとえば『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除してよいか?」
李靖が答えました。
「それはできません。戦争においては、いかに相手をだまして、こちらに都合のいいように動かすかが重要となってきます。『まじない』や『うらない』などの迷信を利用すれば、貪欲な人や愚鈍な人をうまくコントロールすることができます。そういうわけで、排除できないのです」
太宗が質問しました。
「そのほうは、かつて『知恵ある将軍は、運勢のよしあしを気にしないが、愚かな将軍は、運勢のよしあしにこだわる』と言っていたが、このことからすれば、『まじない』や『うらない』などの迷信は、排除したほうがいいのではないか?」
李靖が答えました。
「むかし、周王朝の武王と殷王朝の紂王が戦ったとき、その日は運勢の悪い日にあたっていましたが、紂王はその日に戦って負け、武王はその日に戦って勝ちました。その日が両者にとって運勢のわるい日であることには違いがなかったにもかかわらず、殷王朝は滅亡し、周王朝は興隆したというように、戦いの結果は違いました。
さらに、南北朝時代、宋国の武帝(劉裕)は、南燕国と戦争することに決めたのですが、その日はちょうど運勢の悪い日にあたっていました。そのため軍事顧問の役人は、日が悪いという理由で、その日に戦争することに反対しました。しかし、武帝は『それは、こちらが出兵し、あちらが滅亡するということだ』と言って戦争を始め、そして見事に勝利しました。これらのことからも明らかなように、『まじない』や『うらない』などの迷信は排除して、あてにしないようにしなければいけません。
しかしながら、春秋戦国時代、斉国が燕国に攻められ、滅亡しそうになったとき、斉国の将軍に任命された田単は、兵士の一人に神様がのりうつったといつわり、その兵士を全軍の前でおがんでみせ、神殿にまつりました。そして、『燕国は敗北するであろう』という神様のお告げがあったことにしました。こうして田単は、斉国軍の将兵をうまくだまして、その士気を高めたうえで、奇策を用いて燕国軍に奇襲攻撃をしかけ、大いに撃ち破りました。これが兵法家の用いる『相手をうまくだまして、こちらに都合がいいようにする方法』でして、運勢のよしあしを使うこともまた、その一種なのです」
太宗が質問しました。
「斉国の将軍の田単は、神のお告げを利用して燕国に勝ったが、周王朝の軍師の太公望は、うらないを無視して殷王朝に勝った。一方は迷信を使い、もう一方は迷信を使わないというように、両者はまったく逆のことをしているが、これはどういうことだ?」
李靖が答えました。
「その士気を高めるためにするという目的は、どちらも同じです。一方(田単)は迷信を排除すべきという原則に逆らい、それをうまく利用して敵に勝ち、もう一方(太公望)は迷信を排除すべきという原則に従い、そのときの状況に応じて最善の策をとったのです。
むかし太公望が、武王を補佐して牧野(殷王朝との天下わけ目の決戦が行われた場所)まで軍を進めたとき、いきなり落雷と豪雨にみまわれ、多くの軍旗や太鼓が損傷してしまいました。そのあまりに不吉なできごとに、将兵たちは動揺してしまいました。そこで、散宜生(周王朝の大臣)は、その動揺をなくすため、うらなって吉と出てから再び出発することを主張しました。しかし、太公望は、『うらないなど、ただの迷信にすぎず、頼りにならない。それに第一、殷王朝の天子を倒すチャンスは、今をおいてほかにない』と言って、散宜生の主張をしりぞけました。こうしてみてくると、散宜生は迷信を利用して将兵たちの士気が低下するのを予防しようとし、太公望は迷信をバカにして将兵たちの不安をとりのぞこうとしたわけで、迷信を排除すべきという原則に逆らったり、従ったりというように、そのやり方は異なっていますが、どちらも迷信のせいで動揺している将兵を安心させるためにするという目的は同じです。わたくしが迷信を排除すべきでないと考えますのは、あくまでも迷信を利用すれば、士気をうまく調節して、こちらを有利にするのに使えるからにすぎず、最終的な勝敗はすべて人の努力によって決まります」
・・・・・・・抜粋終わり
身もふたもない て話だが、それで騙されるのは「幻・幻想」を信じる人。
>むかし、周王朝の武王と殷王朝の紂王が戦ったとき、その日は運勢の悪い日にあたっていましたが、紂王はその日に戦って負け、武王はその日に戦って勝ちました。その日が両者にとって運勢のわるい日であることには違いがなかったにもかかわらず、殷王朝は滅亡し、周王朝は興隆したというように、戦いの結果は違いました。
>南北朝時代、宋国の武帝(劉裕)は、南燕国と戦争することに決めたのですが、その日はちょうど運勢の悪い日にあたっていました。そのため軍事顧問の役人は、日が悪いという理由で、その日に戦争することに反対しました。しかし、武帝は『それは、こちらが出兵し、あちらが滅亡するということだ』と言って戦争を始め、そして見事に勝利しました。
これって面白いよね。
「悪い日」っていっても、「相手に悪い」か「自分に悪い」かはわからんし、「それは、こちらが出兵し、あちらが滅亡するということだ」てなることも、現実は度々起きる。
こういう話は他でも同じくありえる
(1)
太宗が言いました。
「わしはいろんな兵法書をみてきたが、『孫子』以上のものはなく、その『孫子』十三篇の要点は虚実、すなわち強いところと弱いところを把握することにつきる。そもそも用兵は、その虚実の運用についてわかっていれば、つねに勝てる。
いまの将軍たちは、ただ『敵の強いところを避け、敵の弱いところを攻める』と言えるだけで、その教えを実戦においてきちんと使いこなせる者は少ない。だからこそ、主導権を握れず、敵に主導権を握られてしまうのではないだろうか。そのほうには、将軍たちと虚実の要点について語りあい、将軍たちに虚実をうまく使いこなすコツをわからせてもらいたいのだが、どうだ?」
・・・中略・・・・・・・
太宗が言いました。
「奇兵を正兵にするとは、敵にこちらが奇兵を用いて戦うと思われたなら、こちらは逆に正兵の戦法を用いて攻撃するということである。(正兵の戦法とは、①あるていど進んだら、いったん態勢をととのえなおし、②あるていど戦ったら、いったん態勢をととのえなおし、③こちらの利益になるからといって、不用意にそれにとびつかないようにし、④わざと敵が退却しはじめた場合には、それを考えもなしに追わないようにし、⑤進攻するときにはあわてず、⑥撤退するときにはあせらず、⑦逃げ道をふさがれても陣形をくずさず、⑧分散しても全体のまとまりをなくさないことである)。
また、正兵を奇兵にするとは、敵にこちらが正兵を用いて戦うと思われたなら、こちらは逆に奇兵の戦法を用いて戦うということである。(奇兵の戦法とは、①いきなり敵前にあらわれ驚かし、いきなり背後をふさぎ、いきなり左から突撃し、いきなり右から攻撃したり、②雷のように大きなときの声をあげ、風のようにすばやく動き、雷鳴が轟くように激しく進み、雷撃がうつように強く攻めたりして、敵をほんろうすることである)。
このように敵をつねに弱い立場に立たせ、こちらが奇兵を用いるのか、それとも正兵を用いるのかをわからなくさせれば、こちらの軍勢はつねに強くなって勝てる。そのほうは、この方法を将軍たちに伝授して、よくわからせてほしい」
李靖が答えました。
「兵法書のいろんな言葉をまとめてみますに、その要点は『相手をコントロールし、相手にコントロールされないようにする』ということにすぎません。わたくしは、この方法を将軍たちに教えようと思います」
・・・中略・・・・・・
8)
太宗が質問しました。
「曹操は、戦騎(突撃する騎兵)、陥騎(突入する騎兵)、遊騎(遊撃する騎兵)という三種類の騎兵を使っていたが、今の騎兵と比べ、どこがどう違っているのか?」
李靖が答えました。
「曹操の書いた『新書』に『戦騎は前にあり、陥騎はまん中にあり、遊騎はうしろにある』とありますが、これはただ単に騎馬隊を三つにわけて配置して、それぞれに名前をつけたにすぎず、そこに特別な意味はありません。
だいたい騎兵八騎は、戦車に従っている歩兵二十四人に相当し、騎兵二十四騎は、戦車に従っている歩兵七十二人に相当します。これは、むかしながらの制度です。また、戦車に従っている歩兵にはつねに正攻法を教え、騎兵にはつねに奇襲を教えます。しかし、曹操の書いた『新書』では、騎兵を前、中、後の三つに分けるだけで、左右両軍についてなにも言っていません。これは、いくつかある部隊編成法のなかから一つだけをとりあげて言っているからにすぎません。
後世の人たちは、このことがわからず、戦騎は必ず陥騎と遊騎の前にあるものだと思いこみましたが、これでは使い勝手がわるくなります。わたくしはこの方法を使いなれていますが、たとえば軍隊をターンさせるときには、前後を逆にして、後方の遊騎を先頭にし、前方の戦騎を後尾にします。そして、中央の陥騎は状況に応じて臨機応変に使います。これが曹操のやり方です」
太宗は笑って言いました。
「多くの人間が曹操のために惑わされたというわけか」
・・・・・・・・抜粋終わり
奇・正も、状況で変化する「概念」だし、それだけのことだけでも「現実」の把握を我々は誤る。
固定して考えて決めつけると、「現実」も「幻想」にとって代わる。
>たとえば軍隊をターンさせるときには、前後を逆にして、後方の遊騎を先頭にし、前方の戦騎を後尾にします。そして、中央の陥騎は状況に応じて臨機応変に使います。これが曹操のやり方です
てのも、使い方で、その性質は変わる。
てのは曹操はよくわかっていたけど、よくわからん後世の人間が
>「多くの人間が曹操のために惑わされたというわけか」
てなる。
世間の常識・科学的な常識も、実はこのような性格を持っているとみていいのかもしれない。
現実は、そういう風に「変化」もするし、意図的に情報をそういう風に流すことも、現実問題、あるとみていいと思う。なんせ諜報機関や銭で情報を流す「マスコミ」って存在しているのだし。
我々は「幻を見てる」って仏教では言うけど、たぶんそれは「仏教」でも「一端」だと思うけど。それも正しい。
我々は現実を見て「確か」って思うが、それをとらえて把握しても、それも一端に過ぎない。
一端ってことでは正しいが「全体・大局的・長期的・多面的」に見ていると、それが正しいとは限らないし、ただの「勘違い」ってこともたびたびだ。
「陰謀論」って言葉がある。
これを「インテリ」とかいう人らは、「間違っている」とはいう。
逆に、それを信奉し、過度に現在の学術や社会を否定する「目覚めた人」とかもいる。
どっちも、冷静に考えると「変な話」で。
そもそも陰謀論ってののうさん臭さは
これである程度分かるかもしれない。
で、「なぜに陰謀論を流布させるのか」ってのを、学術と政治・戦略とかで検証すると、
「陰謀論」そのものよりも、
それを「流布させようとする人たちの思惑」も見れる。
のに、見ようとしないのは、ちょうど、
>「多くの人間が曹操のために惑わされたというわけか」
てなわけで、自分の頭の固さを白状するようなモノ。
真実を知る者が、最も幻・幻想を操作し駆使できる。
>わたくしが迷信を排除すべきでないと考えますのは、あくまでも迷信を利用すれば、士気をうまく調節して、こちらを有利にするのに使えるからにすぎず、最終的な勝敗はすべて人の努力によって決まります
ていうように。
>兵法書のいろんな言葉をまとめてみますに、その要点は『相手をコントロールし、相手にコントロールされないようにする』ということにすぎません。
これに尽きる・・・てのもあるよね。
少なくとも「自分を他者にコントロールさせない」てのは、
「幻を信じないようにし、真実を知るようにする」しか無いっ てことだよね。
安富歩さんが
>自立とは、多くの人に依存することである
とは旨い事を言っている
ある意味で、すべてのものは「依存し合って存在している」し。
お互い様 の おかげ様
であるしね。
ふと思うに、
「依存する・自立独立する」ってのは、
極論すると
「幻・幻想を信じたまま居続ける・居直る」
か
「過酷かもしれない真実を、あえて直視しようとする」
か
ってのが、一番の肝心なのかもしれないよね・・。
まあ、難しいし、旨くまとまった分からんけど・・
追記
老子の 最初の章に
>だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。
と。
私の勝手な意訳で
故(ゆえ)に常(つね)に無欲(むよく)にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。
を、
欲が無いと、その本質が見える。欲が有ると、その結果しか見えない。
て解釈してみたら・・・
結構わかるか・・
これから見ると「天皇」ってすさまじい欲の権化で、「まともにモノが見えなる」人たちだらけってことだな。
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