ムダ話。ランクとか言い出すと危険。

ちょっと前まで、活躍してたアンジャッシュの渡部さん。

芸能活動休止する少し前から

「人間としてのランク」

とか言い出していた。


私は「こりゃ、危ないな・・」

と思ってたら、案の定「不倫」というか、既婚でそれも美人を嫁にしているのに、ほかの女性に手を出しまくって、活動休止になった。


まあ、個々人の関係や夫婦関係など、たいしてどうでもいいは、犯罪にもなってないし。

それで「記者会見を開け」って、無用だは。


せいぜい嫁に土下座して、謝って反省することだ。


けど、そう「人間としてのランク・レベル」とかいうのは、当然そういう「思い上がった行為」に、つながっていく。


島田紳助氏も、ちょうど辞める前ほどそんな戯言を言っていた。


万物斉道で、人間など、どう考えてもアホな存在なのだ・・{アホゆえに、英明でもある。てひねくれた存在}

成功も「半分以上」は運の産物。努力も肝心だけと、「努力できる」のは、その資質と環境とチャンスを与えられたってのもあるし、それも結構「運」だが。


ともわれ、「成功」も「たまたま」の産物を「うまく拾えた」だけの話なのだ。

光武帝と建武二十八宿将伝 より

 劉秀は、その死の遺言で「私は人々の役に立てなかった」と述べている。劉秀が行った統一の困難や、その後の政治改革の圧倒的な量を考えると、あまりに謙遜に過ぎると思える。しかしもし仏教の「縁起」の思想を知っていたなら、この発言は自然である。
 縁起とは、すべての事柄は関連性の中にあり、それ自体とか自己というものはないという考えである。例えば、野球選手が大活躍していれば、多くの人はその人の努力と才能によるものと考えるが、仏教では異なる。縁起の思想の元では、活躍できたのは良いコーチに教えてもらったから、才能があるのは両親の遺伝で強い肉体を受け継いだから、努力が続いたのは自由に野球ができる安定した社会に生まれたからなど、努力と才能の内容を分解していくことで、その人の行ったことは何もないという結論に至るのである。

漢の大軍師 の張良が「たまたま陛下{劉邦}とめぐりあい」と回想し、 三国蜀の大宰相の 諸葛亮も、「たまたま勝利して」と述べている。

偶然があってこその大成功だったてのを心底知っている。その「偶然」を拾うのに、心底苦労し血反吐を吐くようなことを続けてきたのだけど・・その偶然なければ話が始まらないのも彼らは熟知してた。

また孔明と同時代人で荀彧の息子の荀粲

「あなた方の成功は偉いとは思いますが、それが知見や識見が優れているのでなく、あなた方の意思と資質と努力が、社会に状況にたまたま合致しただけです」

と結構辛辣ながら、「成功」の本質の一面を喝破している。


「たまたま」あってこその「成功」を

人間の「クラス・レベルが違う」とかいうのは、勘違いと言うか、同じ平等な人間なのだから「思い違い」も甚だしい。


まあ「琥珀は腐朽した芥を寄せ付けません。」とはいうが・・


和光同塵ともいうし、「善をともに為すのが一番偉い」と孟子。


誇り高さと、傲慢さは違う。それをはき違えると、危うい。

なんせ「琥珀は腐朽した芥を寄せ付けません。」と言った当人は、最終的に島流しになって亡くなっているし。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?