東大法話 とは エリートの無責任 であり、天皇陛下万歳であり、天皇法話であり、日本人死ねである。
東大法話 とは エリートの無責任 であり、天皇陛下万歳であり、日本人死ねである。
東大法話とは、天皇法話である。
エリートが「責任意識が無い」「無責任」ってのを「東大法話」といってもいい。
まあ、でも、
天皇が、国家の敗亡に責任をとらんのだ。
そう考えたら、エリートも
「なんで天皇の責任を俺らがとらなあかんのよ」
てのはわかる。
てなると、「天皇卒業」か「天皇死滅」が、すべてを解決するよな。
何故に東大で、このような「東大法話」が発達したのか。
一つは「官僚制」の中で生きるのに「責任の所在」を明確にする必要があることが、一つ。
あとは、その「責任の擦り付け」や「それから身を守る」ために、もともとあった。
それが、ここまでに異様に「東大法話」ってくらいまで、いびつに進化したのは、
天皇が一切責任を取らない~天皇制国家
だからである。
さらにいうと、裕仁が、一切の戦争責任を取らない。
てなると、本来「天皇」が取るべき「責任」を、「生贄」で、権威も権限もない、弱いモノの背負わせるようになる。
天皇と国家が、そのようにしてきたのだ。
その中で適応して生き延びるのに「東大法話」を磨くのは、ある意味で
「天皇」という邪教が日本の存在する限りに
「東大法話=巨悪」とは言えないのだ。
天皇こそ、東大法話なのだから。
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