西平鋭子(83) 聞き取り記録 その2


「はいはい、はい、いいですよ。聞いてはいるから。勉強はしたほうがいいですよ。私たちの年齢はできんかったから。はい、ちょっと待ってよ。茶ーぐわぁー出しましょうねー、ちょっと座ってて。」

「はいはい、今日は何からですか?」

「あ-この前の続きね。うちは…何名兄弟なるかねえ…早く死んでるきょうだいもいるからねえ。待ってよお…一、二、…早く亡くなったのも入れると10人です。」

「昔はいっぱいいたの。うちは男が5名、女が5名、私は一番下。一番上の兄さんは早くに亡くなっているから分らんし、一番上の姉さんは私が生まれる前に紡績で大阪に行ってるから、顔見たのは姉さんがはたちにもなってからだから。」

「この一番上の姉さんは頭が良くてね、親に女学校行かせてくれって言ったんだけど、貧乏だから行かせきれない。二番目の兄さんを一中(旧制沖縄県立第一中学校:現 首里高校、記録者注)に行かしてるから、お金がないからダメっていってね、行かさんかったわけ。でも、姉さんは行きたいから、家出みたいにして船に隠れて乗って、島から那覇に出て、女中してたらしい。」

「私が聞いたのは、県の偉い人の家の女中してたらしいです。部長さんとかだったか、内地から来た人の家。この部長さんが酒癖が悪くて、酔っぱらったら日本刀抜いて暴れるってから、奥さんが可哀そうっていう話は聞いてますね。」

「してから、どんなしたかねえ、一回は島に帰ってきたかねえ、那覇からそのまま行ったんかねえ、人に誘われるか何かして、大阪に紡績に行って。」

「そんなに大変ではなかったみたい。楽しかったではあるみたい。だから、若い時に内地行ってるから、とってもハイカラな人でしたよ。洋服も上等着るし、着物も好きだったし。年行ってもボケるからって、新聞読んだり文藝春秋読んだりしてたし。何が面白いかは私は分らんけど。」

「あっちで結婚もしてるから、安定してたんじゃないかねえ。」

「ううん、こっちの人。どこだったかな…南部の人、南風原とか具志頭玉城あたりだったはず。」

「多分誰かの紹介じゃないかねえ。奉公先とか紡績には男の人いないはずだから。」

「うん、でも、戦争終わってクビになったか、やっぱり心配だったんじゃないかねえ。でなければ、ああ、相手が嫡子だから仏壇あるから呼ばれたんじゃないかねえ、とにかく戦後しばらくしてから引き揚げてきよったですよ。」

「一番上の兄貴は早く亡くなってる。私が生まれる前か、物心つく前だから、あんまり分からない。」

「私は一番下だから、お母さんが40過ぎの子。戦前の40ったら相当年寄りだからね。また、目も悪かったから、いつも私が手引いて歩いていましたよ。私はすぐ上の姉2人と兄が親代わり。」

「家は畑と海とですね。半農半漁というのかね。家は屋号が、うふやー(大家:本家のような意、記録者注)と言いよったから、昔は栄えた家だったみたいだけど、私のころには貧乏。」

「うん、兄貴、二番目の兄貴で15代。本当は上がいるけど、早くなくなっているから、二番目の兄貴が今は長男。島の家に行ったら系図もあるはずだけど、もう島は何十年も帰ってないから。」

「ああ、父ちゃんの話も聞いているわけ? うちは毛氏。護佐丸の子孫らしい。うちのご先祖は医者だったらしい。頭が良くて、中国にも留学して、王様の医者になったけど、酒が好きだったらしいわけ。それで次の日、王様の首のおできを取る手術?をすることになったらしいんだけど、簡単だからって前の日深酒して、その日なったら手が震えて、王様の首に傷つけてあるわけ。そしたら謀反の疑いをかけられて、島に流されて、ここで妻子もつくってあるわけ。これがうち。しばらくしてから、首里に残っている友達が、あれは謀反するような人ではない、と言ってくれて、首里から迎えが来たけど、もう妻子もいるし、今から首里に帰っても人に合わせる顔がないからって断って、それからずっとらしい。」

「うん、だから、私が結婚する時は、うちの母がとっても心配しよった。あっち(夫:西平守温氏、記録者注)は首里の人でしょ? いろいろ難しいから、やっていけるかねえって。でもうちの父が、<あまが他魯毎やれー、わったーや護佐丸るやる、何ぬ不足ぬあが!>(先様が他魯毎なら、こっちは護佐丸だ、なんの不足がある!:南山王・他魯毎:統一王朝の王家である尚氏にとっては敵対者、護佐丸:第一尚氏の女婿、忠臣として伝えられる。記録者注)って母を叱って、私を嫁に出した。だから、偉いですよ、うちの父は。」

「うん、プライドは高かったですね、貧乏はしてても。それにハイカラーだった。護佐丸の門中はみんな名前に「盛」をつけるんですけどね、うちのおやじはこの時代に古臭いのは好かんと言って、男の子どもはみんな盛の字は入ってない。」

「うん、教育熱心ではあったですね。だから、兄さんは無理して一中行かせたんだはず。だから仕送りもしないといけないし、子どももたくさんだから貧乏。姉さんも学校行けなかったし。だから兄貴は今は安定してるけど、ほかのきょうだいは、なーめいめい(人それぞれ、記録者注)。」

「私も学校行けてたらなーとは、今でも思いますよ。私も中学までは成績優秀だったから。学がないから哀れしている、と思うこともあるけど、そうしかできない時代だったから、どうにもならないですね。」

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