アイデアの一致をめぐって
はじめに
こんにちは、平英之です。TOMというグループで短歌活動をしております。2018年から2020年まで、ウェブサイト「TOM」に作品や文章を発表しておりました。
このたび、第40回現代短歌評論賞の受賞作である桑原憂太郎「口語短歌による表現技法の進展〜三つの様式化」において拙稿「かつてなく老いた涙目の短歌のために」(2020年6月19日公開)と一部にアイデアの一致があったこと、それから、第39回現代短歌評論賞への桑原氏の応募作「希薄な〈作者〉、濃厚な〈語り手〉〜現代口語短歌の〈私性〉」においても拙稿「短歌にとっての〈語り手〉」(2020年5月12日公開)と似通った議論や語彙の選択があるのではないかと感じられたことについて、いくつか書かせていただきます。
アイデアの一致があるとはいえ、今回の評論賞受賞作である桑原憂太郎「口語短歌による表現技法の進展〜三つの様式化」に限れれば、仮に拙稿「かつてなく老いた涙目の短歌のために」を参照して書かれたものなのだとしても、内容を鑑みて、「アイデアの盗用」とまで言えるかについてはそれなりの説得的な主張や手続きが必要であり、また解釈の余地のあるものだと感じられました。そのため、いきなりインターネット上で訴え、検証もなくなんらかのレッテル貼りのようなことが万が一にも起きることのないよう、まずは短歌研究社に問い合わせメールを送り(2022/9/26)、相談に乗っていただくことにしました。相談の結果、短歌研究社から桑原氏に確認をとっていただくことになりましたが、桑原氏の返答としては、「平英之」の書いたものは読んでおらず、そもそも「平英之」という人物を知らないとのことでした(2022/10/12に短歌研究社より伝えられました)。
そして、これより先のことについては、書き手として私が自分で公に主張していくことだという話になりました。
私の立場からは、「読んでいない、知らない」でこの件が終わるというのでは納得しがたく、また、そもそも「読んでいない、知らない」ということがありえるのか、そこに疑念をもってしまいました。以下、その疑念について書いていきますが、疑念とは別に、文章の中身にかかわる問題提起や議論なども書きました。ぜひ、お読みください。
1.ブログ記事について
まず、私が桑原氏のことをはじめに知ったのは2020年8月29日ブログ記事「短歌の<私性>とは何か②」であったと思います。2020年9月に小峰さちこ氏がリツイートしていたのを見たのがきっかけでした。桑原氏はブログ記事のなかで「語り手」概念に言及するなかで
と書かれています。桑原氏のブログにはじめて「語り手」の語彙が出てくるのがこの記事です。また、「小説世界では、一人称にしろ三人称にしろ、この「語り手」は分析対象あるいは研究対象となっていようが」と書かれていますが、この書き方は、以前から「物語論」や「小説論」に親しんでいた人のものではないと思われます。
桑原氏の言う「最近」というのがどれほどのスパンを示すのかはわかりませんが、「短歌にとっての〈語り手〉」を公開したのが2020年5月12日のことであり、桑原氏の記事の三ヶ月半前のことになります。また、自分の書くものとしてはそれなりに読まれた手応えもありましたので(2022/10/15時点でツイートからのリンククリック数は399、scrapboxのクリック数は920であり、当時も発表してすぐにtweetからのリンククリック数は200を越えていたと思います)、「語り手を「最近」議論の対象にしたのは自分だろう」「この桑原さんという方も読んでくれたのかな」「面白がってもらえたかな」などと思った記憶があります。
「語り手」という概念そのものは「物語論」・「小説論」では一般的なものですが、短歌を論じる上では「作中主体」という強力な語彙があるため、「語り手」と「作中人物」のレイヤーの違いについてとくに言及する必要がなかったところもあったかと思います(※近年では「TPS視点」・「FPS視点」について論じる永井祐氏の評論「口語短歌とリアリズム」がそういったレイヤーを語る議論にあたるかもしれません)。あるいは、そのレイヤーの違いに言及するにしても、短歌を語る上では、それは大抵の場合〈「われ」や「もの」や「景」について書き手=〈わたし〉がどのような視点や態度でそれを表現しているのか〉という問題になるでしょうから、わざわざ「語り手」という語彙を使う必要もなかったかと思います。桑原氏も「必要とされていなかったのだ」と書かれていますが、では誰がその「必要とされていなかった」「語り手」について「最近」論じたのでしょうか。
私は「短歌にとっての〈語り手〉」を書く以前から、〈作者≠作中主体〉であろうとなかろうと、「作中主体」という(曖昧な)概念をあらゆる短歌作品の読みに無反省に適用するのであれば問題が生じるだろうと考えていました(「作中主体」という概念を無効だと言いたいわけではありません)。また、土岐友浩「作中主体ってなんのことです」において
との問題提起もあり、ここでひとつ「語り手」概念を「作中主体」概念にぶつけてみると面白いかもしれない、というのが当時の自分のアイデアのひとつでした。twitter上では以下のようなやりとりもあり、具体的な歌の読みについてもひとつの応答になったのではないかという手応えもありました。
「短歌にとっての〈語り手〉」には、当時Twitter上で非常に話題となっていた土岐友浩「リアリティの重心」(桑原氏の第40回現代短歌評論賞受賞作にも引用されていた〈花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった/吉川宏志〉をめぐる評論)への応答も含まれており、当時のtwitter上で注目の集まっていた話題について、「語り手」という概念に言及しながら、それなりに鮮明な意見を提示していたと思っていました。ですから、桑原氏もこのタイミングで「語り手」について論じはじめるのであれば、当然「短歌にとっての〈語り手〉」を読んでいるだろうと思ったわけです。
2.「希薄な〈作者〉、濃厚な〈語り手〉〜現代口語短歌の〈私性〉」について
第39回現代短歌評論賞への桑原氏の応募作「希薄な〈作者〉、濃厚な〈語り手〉〜現代口語短歌の〈私性〉」には抄録がなく、選考座談会内での言及からうかがえるかぎりでしか内容がわかりません。しかし、ここではじめて、桑原氏に疑念を持つことになりました。
選考委員の谷岡亜紀氏の発言に次のようにあります。
次に、篠弘氏の発言には次のようにあります。
最後に、三枝昂之氏の発言には次のようにあります。
・「語り手としての〈私〉」と作中主体とが混在した新しい視点
・「〈主体〉と〈語り手〉の『混然』」
・「現代口語短歌には、〈語り手〉と〈主体〉の『心内語』が混然となった〈私〉、というのが確認できる」
とりわけ以上の三つの言及に、私の言説と非常に似通ったものがあるように思われました。「混然」というアイデアと「心内語」という語彙の選択が同じなのです。
拙稿「短歌にとっての〈語り手〉」において〈ザハ案のように水たまりの油膜 輝いていて見ていたくなる/鈴木ちはね〉を読解している部分を以下に引用します。すこしわかりづらい記述となっています。(以下の引用部では、〈私〉≒〈作中人物〉≒〈作中主体〉、〈わたし〉≒〈語り手〉として、
お読みください)。
今読むと、すこし意味の通りづらいところのある記述だと感じますし、もうすこしうまく書けたはずだとも思います。とはいえ、引用部において、「心内語」という語彙を使用しており、また、「叙述なのか思いなのかの境界のない」と書きながら、「〈主体〉と〈語り手〉の『混然』」(桑原)と同じようなことを指摘しているのは、お分かりいただけるかと思います。
(1)「混然」(桑原)について
「混然」(桑原)は、「短歌にとっての〈語り手〉」のなかの主要なアイデアのひとつでありました。引用します。
〈私〉と〈わたし〉の「レイヤーが錯綜するようにして歌の声が立ち上がっている」ということをここで書いています。
ここでは、セリフを言うように発話する主体と、そうした主体となる人物を俯瞰できるような位置にいる叙述の主体とが混ざり合ってひとつになるところに、〈歌の声〉とでも言えるようなものがあるだろうという指摘をしています。
(当時の筆者としては、短歌における〈私〉のレベル分けよりは、〈話すこと=パロール〉と〈書くこと=エクリチュール〉の対比および「混然」に関心があったと補足しておきます)。
叙述と発話の混じり合っている例としては、
を引用しています。
(この文脈で「夕焼け小焼け」を例として挙げるアイデアは、野村剛史『日本語スタンダードの歴史 ミヤコ言葉から言文一致まで』(岩波書店、2013年)第二部第3章より)
(2)「心内語」について
「混然」について論じるなかで、「心内語」という語彙が出てきているのにも引っかかりをおぼえました。「心内語」という語彙はよく使われるわけではないかもしれないですが、とても珍しいものというわけでもなく、この語彙自体にオリジナリティを主張するのは難しいと思います。それでも、「心内語」という語彙が短歌の評論によく使われるということはないと思われますし、実際に篠氏も「「心内語」というのを短歌の批評に使ったのは、この人が初めてじゃないかと思う」と語っています。
本来、「心内語」にあたるものは、「物語論(ナラトロジー)」に忠実ならば「自由間接話法による内面の表現・語り」などとして論じるべきものであり、「心内語」とはあまり言わないはず(?)です。私は「物語論」を学ぶ前から「心内語」という語彙を使っていたので、そのまま使用しておりました。
また、「心内語」という語彙を選択するにしても、他に「心内発話」、「心内文」、「内的独白」、「独白」、「内言語」、「思い」、「思い言語」、「モノローグ」、「心の声」などなど、さまざまな選択肢を検討したうえで暫定的に「心内語」を使用していたという経緯もありました。
暫定的に使用していたとはいえ、当時、(「物語論」的な関心よりは)「話すこと」と「書くこと」の中間的な場所にあるものとしての「心内語」に強く関心を向けていたことは、著作物ではないですが、次のようなツイートからもわかると思います。
(↑当時はオープンにしていましたが、今は鍵をかけているアカウントです)
「混然」(桑原)と「心内語」は、当時自分がとりわけ関心を持って書いていたことであり、また、管見の限り短歌の評論において他ではあまり見たことがない議論でした。ですから、抄録もなく、全文の内容もわからず、確実なことはなにもわからないとはいえ、「希薄な〈作者〉、濃厚な〈語り手〉〜現代口語短歌の〈私性〉」についての選考座談会を読んだときには、少なからずショックを受けました。基本的には自分の書いたものを自由に活用・発展・批判していただくことは大変ありがたいことなのですが、桑原氏の書き方はあまりにリスペクトを欠く行為ではないかと私には感じられました。抄録がなく全容はわからないながらも、選考座談会を読むかぎり、あたかもご自身のアイデアかのように書いているように私には感じられたのです。
「混然」だけであれば「自由間接話法」や「意識の流れ」などの知識から同様に書けるかもしれないと思わなくもないのでですが、そうした知識から書かれているとは思えませんし、それに加えて、自分が鍵語的に使っていた「心内語」も合わせて出てきているわけです。
3.「口語短歌による表現技法の進展〜三つの様式化」について
このような経緯があったため、第40回現代短歌評論賞受賞作の桑原憂太郎「口語短歌による表現技法の進展〜三つの様式化」は少なからず警戒して読むことになりました。すると、今度は「短歌にとっての〈語り手〉」ではなく、「かつてなく老いた涙目の短歌のために」と一部のアイデアの一致が確認されました。そして今度は「物語論」関連ではなく、「日本語学」関連でのアイデアの一致です。二年連続でこのように別々の分野、文章からアイデアが一致してしまうというのは、私にはまったくの偶然とは思えないことでした。
以下に「かつてなく老いた涙目の短歌のために」とアイデアが一致している部分について書いていきますが、そのまえに2点確認しておきます。
まず、「口語短歌による表現技法の進展〜三つの様式化」と「かつてなく老いた涙目の短歌のために」とのアイデアの一致は、一部の道具立ての一致であり、その道具の使い方や論述の一致ではありません。多くの場合、道具の使い方の部分に強く書き手の独自性がでるでしょうから、道具立てそのものの独自性というのはなかなか主張しづらいところもあります。道具立ての独自性の主張がどれほど説得的なものになるかはわかりませんが、ひとまず、去年度は「物語論」関連、今年度は「日本語学」関連において使うアイデアが一致してしまっているということについて、ご確認いただけたらと思います。
また、「かつてなく老いた涙目の短歌のために」は部分的に(とりわけ前半部?)、通常の「評論」や「論文」の形式で書かれておらず、ひとつの「表現」として非常にイレギュラーな書かれ方をされているものであることをご了承ください。難解な部分、記述の荒い部分、論の飛躍した部分などあるかと思います。どうしてこのような書き方をしたのかには、さまざま理由がありますが、ひとつの表現や実験として受け取っていただけるとありがたいです。インターネットで活動しており、マイナーな立場であるからこその、本来であればやらなくてもいいような破格の文章を目指したというのも、ひとつの理由です。あるいは、書くこと、考えること、表現活動をすることの自由のために、もしかしたら「無様」であったりしてもいいから、ここまでやってもいいんだというメッセージなり、その姿なりを読んでくれているこれからの書き手に示そうと気負っていたところもあります(「TOM」第一期で私が書いた最後の評論作品がこの文章でした)。あるいは、twitterにおける攻撃的な言葉を創作物のなかの一要素として取り込めないか(twitterがプラットフォームであり続けるならば、それに耐えるか、飲み込んでしまえるほどの文体を作れないか)、「客観的叙述」よりも「主観的思いや語りかけ」を評論のなかの一要素として取り込めないか、そういう文体実験でもありました。それから、いつか・どこかで読んでくれているかもしれない〈マイナーな人間〉に向けた電波のつもりでもありました。そういった意気込みに見合う出来になったかどうか、自分で思うよりもブレーキのかかった穏当なものになっていたかどうか、文章作品としての良し悪しは自分にはわかりませんが、さまざまな思いをこめて書いた文章でした。
さて、桑原氏の評論は三部構成であり、
1.たどたどしい口語短歌
2.口語短歌の三つの分かれ道
3.表現技法の三つの様式化
となっています。今回アイデアの一致があったのは第3節です。第3節は桑原氏の評論にとって、最もご自身の独自性が発揮されているべき部分です。
第3節は、
文末の「た」についての記述のあとに、
①動詞の終止形の活用
(動詞の「ル形」がテーマ)
②終助詞の活用
③モダリティの活用
という構成になっています。拙稿においても、文末の「た」、「ル形」、「終助詞」が扱われています。「モダリティ」(「話し手の判断や態度」)という用語こそ使っていませんが、終助詞の話というのはほぼ自動的にモダリティの話になりますし、「モダリティ」にあたるような分析も行なっています(「モダリティ」という語彙は使っていないので、ここにアイデアの一致を主張するつもりはありません)。
(余談ですが、「モダリティ」について、次のようなtweetをしたことはあります。)
さて、具体的にどのような記述があったのか、以下に三つ確認します。
(1)文末の「た」について(終助詞の話もすこしだけします)
桑原さんの論旨と私の論旨は違いますが、共通して、現代口語文の文末の基本形として「た」に注目しています。ただし、桑原氏の記述は、直接には桑原氏が参考文献に挙げている大辻隆弘『時の基底』を下敷きにしているか、あるいは文語短歌と口語短歌の違いとして多くの人によく語られている言説を再確認しているのだろうと思われます。ですから、文末の「た」そのものにアイデアの一致を主張するつもりはありません。しかし、これを「終助詞」や「ル形」と並べて比較するところに一致があるため、まずは文末の「た」をめぐる記述を確認しておきます。
桑原氏の記述は次のようなものです。
大辻隆弘「文語で歌うということ」『時の基底』には次のような記述があります。
文語短歌と口語短歌を文末の助動詞の豊富さ/貧しさにおいて対比させるというのは、これまでにもよくなされてきたかと思います。
という有名歌もあります。
さて、これまでに口語短歌の文末表現についてもさまざまに論じられてきたかと思いますが、どちらかといえば文末よりも他の部分、文法事項で言えば、たとえば格助詞(「が」「の」「を」「に」「へ」「と」「より」「から」「で」)などへの言及が多かったと思われます。あるいは、「詠嘆表現」や「呼びかけ表現」など、必ずしも文法に強くフォーカスを当てることなく語られていたと思います。
そこで拙稿「かつてなく老いた涙目の短歌のために」では、「終助詞」と「ル形」に強くフォーカスを当ててみたら面白いのではないかと、そういうアイデアで書いています。
「かつてなく老いた涙目の短歌のために」では、「文末の「た」」について、〈リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない/山中千瀬〉を読みつつ、次のように書いています。
後の論点ですが、拙稿では、書き言葉口語体の散文においては「た」が文末であることが明確なのだとしても、口語短歌においては、「たヨ」や「たネ」といった〈隠された終助詞〉を伴う「声」に聞こえることもあれば、あるいはそのまま「〇〇は〇〇た」という書き言葉による散文的な叙述にも読めることもあり、どちらともつかないようなニュアンスを持つことがあるのではないかということを主張しています(「ル形」の文末であっても同様に、「るヨ」や「るネ」と聞こえることもあるでしょう)。その区別のつかなさ、曖昧さに着目して歌を読み解くというのが拙稿の試みのひとつです。すなわち、「書き言葉口語体(≒言文一致体)」と「話し言葉文体」の境界の曖昧さ、それから、「叙述(≒記述)」と「心内語・発話」の境界の曖昧さを、とりわけ口語短歌のうちに指摘できるのではないかという論旨であり、だからこそ「終助詞」に着目するわけです(そこまで明確に書けていないかもしれないですが)。ですから、文末の「た」について、桑原さんと論の展開は違うということになりますが、文末の「た」を踏まえた上で終助詞の表現について語るというアイデアが一致しているのです。
(2)動詞の「ル形」(終止形)について
「①動詞の終止形の活用」において、桑原氏は動詞の終止形について次のように書きます。
ちなみにですが、動態動詞の「ル形」が未来を表すという点について補足すると、たしかに
のように、テイル形は「現在」を、ル形は「未来」を表現しますが、厳密には
など、テンス(時制)の関係しない表現(一般的事実、習慣、規則、真理を表現するケース)も「ル形」にはあります。また、
など、桑原氏の言及する「動態動詞」ではなく「状態動詞」の「ル形」であれば、現在時制を表現します。「「ル形」(終止形)でおさめるという技法」について一般的に論じるならば、これらのケースにも言及したほうがより正確な記述になったかもしれません。
さて、拙稿「かつてなく老いた涙目の短歌のために」では、〈巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ/内山晶太〉の「しぼむ」に着目し、次のように論じています。引用長くなります。
「ル形」という概念は日本語学を学ぶ人からすれば常識的な知識かとも思われますが、短歌の評論で使われることはかなり稀であるとも思われます。
〈ル形〉という概念そのものは公に存在するものですし、〈ル形〉そのものには私のオリジナリティを主張し難いでしょう。しかし、去年度の〈語り手と(作中)主体の境界の曖昧さ〉・「心内語」と合わせて、また、「助動詞」や「接続助詞」・「格助詞」などに比べてあまりスポットの浴びてこなかった「終助詞」への着目も含めて、このように論述にとって重要な部分での道具立ての一致が複数重なることがあるものでしょうか。
念の為、今回この記事を書くためにあらためて調べたところ、東郷雄二『橄欖追放』の第324回、第214回、第164回、第68回に「ル形」への言及がありました。とりわけ第214回に「ル形」への言及が手厚く、「ル形」が現在の事態を表現するケース、習慣的事態を表現するケース、近未来に起きる事態を表現するケースについてしっかり記述されています。とはいえ、そもそも桑原氏の引用・参考文献に『橄欖追放』は挙げられていません。また、東郷氏の論には「ル形」と「終助詞」を並べているものはありません。
また、東郷氏のようにどちらかといえば〈文末表現の単調さ〉の文脈で「ル形」を論じるような方向性ではなく、「ル形」を〈破格の文末〉としてポジティブにとりあげる点にも私と桑原氏にアイデアの一致があるかと思います。
「ル形」をめぐっては最後に余談、あるいは議論として、ひとつ書いておきます。桑原氏は、本来は「未来」を表現するはずの「ル形」が「現在」を表現している事態について、次のように記述しています。
「動画的とでもいえる叙述」という言い方は面白いと思いました(ただし、大辻隆弘「多元化する「今」──近代短歌と現代口語短歌の時間表現」『近代短歌の範型』に同様の議論があります)。そして、先にも引用しましたが、私にも見解の一致する歌の読みがありました。
しかし、「未来」を表現するはずの「ル形」がなぜ「現在」の出来事を表現できてしまっているのかという点に、もうすこし説得的な説明があるはずなのだと思います。東郷氏も、次のように考えあぐねています。
動作動詞のル形が現在起きていることを表さないはずであるにもかかわらず現在的な出来事感を十分に表現しているのはなぜかという点については、「かつてなく老いた涙目の短歌のために」で紹介した、近代以前から「ル形」が日記文やト書きに使われていたという説がひとつの説明にはならないでしょうか。
文法的に破格な「ル形」の用法について、文法外から説明を与えていることになります。
(3)終助詞とモダリティについて
終助詞が〈主体〉にキャラクターづけをするという論は桑原氏独自のものであり、私にそのような論はありません。また「モダリティ」という用語も使っておりません。当時私に「モダリティ」概念について十分な知識がなかったことや、他にも思うところがあり不使用を決めましたが、「モダリティ」(「話し手の判断や態度」)にあたるような分析はしております(「モダリティ」という語彙は使っていないので、ここにアイデアの一致を主張するつもりはありません)。
私が「終助詞」を論述の対象として選択した経緯や、「終助詞」についての「かつてなく老いた涙目の短歌のために」の記述について、いくつか書いていきます。
まず、経緯について。ひとつには、伊舎堂仁さんの歌評や御殿山みなみさん(ひざみろさん)の「ひざがしら」(本にもなってます)の、短歌を〈「発話」的なもの〉や〈なにか言っているもの〉として(も)読むような視点に影響を受けました。今では(当時から?)、当然の視点だと思われるかもしれませんが、少なくとも当時の私の短歌の読み方にとっては新鮮なものでした。
それから、とりわけ2019年から2020年にかけて
といった歌に注目があつまっており、私としてもなにかしら語ってみたい歌でありましたが、当時の私の道具立てではうまく語ることができず、自分なりのアプローチがないかとさまざま考えておりました(「かつてなく老いた涙目の短歌のために」においても〈洗脳は〜〉の歌についてあまり語れているとは言えないのですが、最近プライベートな場で自分でもなかなか面白いと思える読みを書くことができたので、いつか披露することがあればするかもしれません)。こういった影響やモチベーションのなかで、「発話」「心内語」「終助詞」について自分なりの取り組みをしていきました。
さて、拙稿では、〈リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない/山中千瀬〉を読みながら、次のように「終助詞」に着目しています。
経緯(のようなもの)については以上です。「終助詞」への着目の意図については「(1)文末の「た」について(すこしだけ終助詞の話もします)」にほとんど書いてしまいましたので、ここでは繰り返しません。
「終助詞」そのものは誰でも知っている文法事項であるとはいえ、「助動詞」や「接続助詞」・「格助詞」に比べてこれまであまりスポットがあたってきてこなかったと思われます。「モダリティ」のような視点を導入しなければ語るべきところの少ない「終助詞」について、〈書き言葉口語体〉と〈話し言葉〉の「混然」(桑原)を裏テーマとしながら、なにか面白いことを言えないだろうかと、個人的にはそれなりに試行錯誤した結果のアイデアであったつもりでした。
ここでは、「終助詞」への着目がそれなりに「アイデア」のつもりでいたということを言うにとどめておきます。
関連して、〈書き言葉口語体〉と〈話し言葉文体〉の間の揺れが極端にあらわれるケースの一つとして、歌を「命題」的(ないし「客観的記述」的)に捉えるか「発話」的に捉えるかの間に読みのモードの揺れが生じうる事態について、次の「余談」もおまけでどうぞ。
余談(「命題」について)
桑原氏は「③モダリティの活用」において、〈アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました/斉藤斎藤〉について、次のように書いています。
まず、「だ/である」体ではなく「です/ます」体である「賛成です」という発話を、「命題だけで「モダリティ」のない対話」であると言えるのかについては議論の余地があると言えるでしょう。それはさておき、口語短歌における〈話すこと〉・〈言うこと〉と〈命題〉・〈客観的記述〉の間の揺れ、〈気付き・発見・つぶやき〉と〈断定・事実確認・客観的判断〉の間の揺れに着目して、すこしトリッキーかもしれませんが、私は次のように書いています。
また、「命題」の主張について、主張する主体がそもそも本心や真実を語っているのかについて、ひとことで言えば「信頼できない語り手」の問題になると思われますが、「短歌にとっての〈語り手〉」において〈花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった/吉川宏志〉に言及しながら、次のように書いたこともあります。当時(2020年)、土岐友浩「リアリティの重心」がきっかけとなり、この歌をめぐって、〈作中主体〉が愛を告げられたのか告げられなかったのか、読み手によって解釈が割れるとSNS上で話題になっていました。
さらに余談ですが(ここは読んでいただかなくて構いません)、引用部に対して小峰さちこ氏よりツッコミが入り、自分の知識や解釈にも100%の自信はないながらも、次のように応答したこともありました。
これはひとつ、私も似たようなテーマをめぐってこういうことを書きました、という話として。
おわりに
・ブログ記事の書かれた時期や内容
・第39回の評論賞において、「物語論」に関連して、〈語り手と(作中)主体の境界の曖昧さ〉という論点、それから「心内語」という語彙に一致があること
・第40回の評論賞において、「日本語学」に関連して、文末処理として、文末の「た」、「ル形」、「終助詞」を並べて論じるアイデアに一致があること
以上の3点から、私が疑念を抱いてしまうのもそれほど不自然ではないだろうと思うのですが、いかがでしょうか。
この文章は2022年10月中旬にはほとんど書き上げられていましたが、公開を何度も躊躇しました。
TOMの活動理念や文脈のため、また、TOMを読んでいただいてなにかしら刺激を受けていただいた方々に向けて、書き手としての責任や義理を通そうという気持ちで公開を決めました。
マイナーであり続けることにこだわりがあるわけではないですが、TOM第一期は、小規模・マイナーでありながら表現活動を続け、独立精神を持ち、ある程度の継続や発展をしていくための、ひとつのモデルケース(あるいはプロトタイプ)のつもりでもいました。そうしたモデルケースを必要とするだろう、いつか・どこかにあらわれる誰かに向けたパフォーマンスのつもりでもありました。必ずしも読み合いの共同体や「依頼」をめぐるインフラに乗ることがなかったとしても、自前でアーカイブ能力を持ち、独自の活動の文脈や時系列をつくっていけることを実践しようともしていました。そうしたことは、これまでのやり方、他のやり方でも可能でしょうし、すでにさまざまな実践があると思いますが、やり方はさまざまあっていいはずです。必ずしも他の活動形式を否定しているわけではありません。それに、TOM第一期はこのようにしかあれないものでした。表現活動の生の形式として。もちろん、すべてが十分というわけではなかったでしょうし、場合によっては反面教師のように見ていただいてもかまいません。第一期は終了して次の段階に入っています。
お読みいただきありがとうございました。
平英之
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