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よそはよそ、うちはうち〜お母さんの金言の巻〜

【よそはよそ、うちはうち】


「お母さん、このゲーム買って、もうクラスで持ってないの僕だけなんだ」

「あら、そう、でも、よそはよそ、うちはうちよ

「お母さん、犬飼おうよ。みんなのお家も飼ってるよ」

「あら、そうみんなって誰かしら?よそはよそ、うちはうちよ

「お母さん、買って買って買って」

「よそはよそ、うちはうちよ」

よく聞くようなお家での日常会話ですよね。

子供がお母さんにモノをねだる時に「〇〇君も持っている」
「持っていないは僕だけだ」

と比較対象を設けることにより、円滑に購入を促す安易な策を講じますよね。

実に安易です。

お母さんは「よそはよそ、うちはうち」で一蹴してきます。

敗訴です。論破です。もう何も言えません。

お母さんサイドからすれば「買ってはあげたいけど・・・」、

家庭の事情があるのかもしれませんし、

色んな理由で購入は出来ないことの苦し紛れかなと

私は幼い頃より考えてきました。

しかし、大人になり「仏教」を勉強していくと「よそはよそ、うちはうち」

というのはモノ凄い哲学であり、真理だったのです。

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【クリスマスは今年もやってくる?】


どうも、お寺で生まれ育ったので、クリスマスがなかった野村泰弘です。

私も幼少期に両親に「うちはどうしてクリスマスがないの?

クリスマスツリーは飾らないの?

みんなの家はツリーを置いてるよ。」

と尋ねました。

理由は「うちはお寺だから」だそうです。

子供の頃の私からしたら、クリスマスの日にはツリーの下にプレゼントが

置いてあるというイメージがありましたので、

是が非でもモミの木がクリスマスの必須条件だったのですが、

「お寺だから」という理由でモミの木が植樹されることはありませんでした。

これも「よそはよそ、うちはうち」精神ですよね。

うちにはうちの宗教がある、よそにはよその宗教がある。

ご存知のように、12月25日クリスマスはキリストさんの誕生日です。

仏教寺院である私の家では当然、

クリスマスにキリストさんのお祝いを特別やったことはありません、アーメン。

ちなみにはお釈迦さんの誕生日は4月8日であり、

「花まつり」と言われています。

簡単にいうと仏教においてのクリスマスです。

プレゼントは配られないですが、

代わりに「甘茶」という甘苦いお茶を飲むことができます。

これはお釈迦さんの誕生時に、

龍が祝いの甘い雨を降らせた伝説になぞらえているのです。

どうせなら甘い雨じゃなくて、ケーキとかプレゼントを降らしてくれれば、

良かったのにと思いますが、もらえるのは甘苦いお茶だけです。

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【悟りとは「うちはうち」】


話はそれましたが「よそはよそ、うちはうち」の話です。

仏教では「悟」という言葉があります。

お釈迦さんは「悟った方だから偉い、悟った人だから尊い」と言いますが、

そもそも「悟」ってなんなんでしょうか?

「悟」という漢字は「忄(りっしんべん)」に「吾」と書きます。

「忄(りっしんべん)」は「心」を表し、

「吾」は漢文体で「我れ、自分」を指しす。

つまり「悟」とは「自分の心」を知る、「自分の事」がわかる様になる。

ってことなんです。

自分の事って意外と分からないですよね。

今何をすべき?これからどうなるのか?

過去はなんだったの?未来はどうなるの?

自分はなんの為に生きてるの?

こんなことが見えるようになったのがお釈迦さんです。

だから、すごいんですよね。

自分のことを知るという修行は言わば、

他人という「よそ」のことは気にせずに、

心の中を知る、「うち」を知るという修行になると思います。

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【心を燃やせ‼︎】


お釈迦さんのお話でこんな話があります。

2500年前のインドでは「火」による修行が流行していました。

「火」を見つめることにより、心の安定を保ったり、

清めるという修行方法だったそうです。

現代でも焚き火を見つめるソロキャンプが流行っていたり、

「火」を見ると少し心が落ち着いたりしますよね。

しかし、お釈迦さんはこの修行方法を大否定、一刀両断しています。

確かに火を見ることによって一時的に心の安定は保たれたかの様に思える。

しかし、それは外側の表面的なものであり、

外側でいくら火を焚いたからといって本当の心の安定にはならない。

私は自分の内側、心の中に火を焚く、心を静かに統一して、安定を保つ。

心に火を灯して、自分を整えた人間は光輝いて見えるものなのである」

という話が残っているのです。

これも「よそはよそ、うちはうち」につながる話だと思います。

いくら「よそ」の外面に気を配っていても、

最終的には「うち」である内面を磨かなければ、

本当の心の安定は得られないってことですよね。

「よそはよそ、うちはうち」

お母さん方は本当によく仏教を勉強されていたんですね。

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【比較は参考までに】


現代はよくも悪くも他者と比較をする時代です。

仏教は「自分を見つめ、自分を磨く」ことが大切とされています。

自分のことはさておき、他者の所業に口をだし、

否定、誹謗中傷などがよく目立ちますよね。

自分の「うち」を見ずに、他者である「よそ」ばかりを気にしています。

「よそ」である他者との比較は大切ですが、あくまでも参考程度に留めて、

自分の「うち」を見つめなければ、人間的な成長はあり得ません。

「よそはよそ、うちはうち」

他者である「よそ」を気にすることなく、

自分自身の「うち」の見つめる修行をしなさい。

世の中のお母さん達はきっとこんな深いメッセージを込めて、

金言を我々に下さっていたのです。

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【小言】


でも、勉強やテストの成績だけは

「よそはよそ、うちはうち」ではないんですよね。

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【自己紹介】

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野村泰弘 (のむら たいこう)
1991/10/28生まれ 福井県福井市出身 日蓮宗僧侶

福井市の中心に位置する足羽山内のお寺「弘法院大師堂」執事長を務める。

難解で近寄り難いイメージの強いお経を今の人にも分かりやすく伝える事を信念に

お坊さんをしています・・・

お経の中身って意外と面白いんですよ。

お寺・お経・仏様・お坊さん、なんだか堅いモノに感じますよね。

意外とそんなに敷居の高いものではありませんよ・・・

【足羽山 弘法院 大師堂 】

〒918-8021

福井県福井市門前町 宝石山17−1−1

TEL: 0776-36-8772

Email:taishido.asuwayama@gmail.com

URL: https://asuwayamano-otera.com/


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