猫のように

猫のように生きたい。
自由気ままに歩み、誰にも迷惑をかけぬよう死にたい。
訳も分からず走り回ったり、フサフサした草をはたいてみたり、
おなかが空けば素直に訴えかけてみたり。

私の人生に、本当の自由を教えてくれたのが猫だった。

自分の作る音楽も、猫のようであればいい。
生きている間に奔放に奏で、自分が死んだら忘れられてもいい。
覚えられていたとしても、好かれるでもなく、憎まれるでもなく、
あぁ、こんなやつがいたな、と思われるだけでいい。

死は悲しいことではない。
みんなに平等に訪れるもので、みんなが受け入れるべきもの。
でも死に向かう、その道のりは少し違う。
もうすぐ終わる、終わってしまう、
その姿は得も言われぬ侘しさを湛えているもので、
その道のりはどうにも悲しい。

今ならまだ引き返せるかもしれない。
そんな誘惑が残っているうちが悲しい。
死んでしまえば引き返せないのに、
その直前には希望を見出そうとしてしまう。
少しでも一緒にいたい、なんてわがままを覚えてしまう。
まさに消えゆくその命も同じことを考えていてくれたら、と。

2年半前、うちの犬が死んだときのことを思い出す。
死はいつだって感情を揺り動かす。
芸術の意味を再考させられる。
別れがあるから、前に進める。
そう思いたい。

うちにはいつだって猫がいた。
今も3匹いて、そのうちの1匹、オスの黒猫が15歳で弱ってきている。
大きな身体で、表に出てくればとてつもない存在感があるのだが、
どこかにひっそりと隠れているときは、気配も消える。

羽根木公園で保護された姉弟。
うちに2匹が来たのは、僕が中学生のころだった。
姉を守ろうとしてか、弟はとても攻撃的だった。
椅子の陰から虎視眈々と僕の足を狙い、
猛スピードで飛び出すと、キンキンに研がれた爪で殴り掛かって来た。
当時はそれが本当に嫌で、僕にとって家は、脅威が常に息づく場所だった。

しかし若かった2匹もこちらの存在を認めてくれたらしく、
弟が殴り掛かってくることはなくなった。
仲が良かったかというと微妙なところだが、
お互いに場所を共有することが苦ではなくなっていった。
気付けば僕は高校生になり、大学生になった。
アメリカの音楽大学に通い、夏休みと冬休みには日本に戻ってきた。
猫は人間よりも早く年を取るが、この2匹は年を取っているようには見えなかった。
まだまだ若いと思っていた。

大学を卒業して早6年が経とうとしている。
振り返れば2匹がうちに来てから15年が経っていた。
あっという間だった。
猫にとっての15歳は、人間でいえば70代の後半だが、
見た目があまり変わらないから分からない。
確かに動きがゆったりとしてきたが、相変わらず綺麗な目をしている。
じっと見ていると吸い込まれそうになる、あの目。
全てを見透かされているような気がしてくる。
猫の前では人間は無力だ。

この1ヶ月ほどだろうか。
弟の姿を見ることが減った。
少し前まで巨体を揺らしながらおもちゃにじゃれていたのに、
気付けば走ることもなくなった。
久しぶりにしっかりと触った身体は、
妙に骨ばっている。
こんなにも早いとは。

頼りない身体を、柔らかくさすってみる。
15年前に僕を本気で倒そうとしてきた手にも、力がない。
おなかは相変わらず立派だが、背骨が今までよりも浮いている。
触れば触るほど、別れが近いことを実感する。

15年。
寄り添いあうわけでもなく、嫌いあうわけでもない、
そんな15年。

今日だって、いつもと同じ一日を過ごす。
明日も、明後日も。
猫が1匹いなくなっても。
人間の生活になんら支障はないのだ。
なんて自由な存在なのだろう。
猫のそういうところが好きだ。

しなやかに生きて、揺蕩うように去ってゆく。

猫のように、ありたい。

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