上京物語〜第一話「上京」

1999年の終わり頃、生まれてからずうっと慣れ親しんだ(?)北海道から東京に移り住んだ。音楽活動のためだ。

近年、となり町と合併して”市”になった街に実家があるが、今もジワジワと衰退していっている。そんな田舎の高校を卒業して、道内では一番大きな街である札幌の企業に勤めた。正社員ではあるがガソリンスタンドなので、スーツは何かの節目のときにしか着なかった。

96年から99年までの3年半と少し、とても短くはあるが、社会人経験を経て「決断」した。


もう、17年くらい前の話なのでうまく思い出せないところもある。しかし、東京のいわゆるキラキラした感じだとか、面白い人とか、ソコでしか体感できないものがあったことは確かだ。現在のスマホで情報を得るようなスタイルもまだ無かったし、インターネットがまだまだ普及せず、iモードが全盛だったと記憶している。液晶がカラーになったモデルがこの頃発売されて、バイト先で同い年だった日体大生が「おお〜カラーだよ〜買っちゃったよ〜」って、嬉しそうだったのを覚えている。そんな時代。

その当時の年齢は、22,3といったところだろうか。

ちょっと話を北海道に戻す。
その田舎から一緒にバンドを組んでいたボーカルと上京を決めたので、決意は薄かったのかもしれない、と今になって思う。でも、心のなかでは「親の死に目には会えないだろうな」という気持ちにはなっていた。

東京の大学にかよっていた同級生の家に居候させてもらうことになり、荷物をまとめて送ろうと、ボーカルの家に持っていった。
「これだけ? マジで?」

小さめの箱が3つ、彼は10個くらいあったかな。
自分は性格上、現地で揃えれば良いかな、という感じだったので最小限の量にとどめた。新しい生活には新しいアイテムが良い。

そうして、飛行機のチケットを予約。
おふくろも寂しそうではあったけど、「しょうがないよね」というタイプの人間だ。

〜〜
東京についた。
高校の修学旅行以来の東京。降りたった時の印象は覚えている。

「息苦しい」
酸素が薄いというか、湿度が高いというか。深く呼吸ができない。
10月の末だったと思うが、羽田空港から三軒茶屋に向かう電車の中で、「これが東京か〜」と、窓の外に見える圧倒的な物量をボンヤリと見ていたと思う。たしか雨が降っていた。

北海道なら冬支度がはじまる頃だが、とにかく暑い。そしてこの湿度。
ベースのケースを背負っているから余計に汗がでる。浜松町から山手線に乗り換え、新宿方面に乗る。

「シブヤで乗り換えだってよ」
彼もへばっていた。

夕方のラッシュに巻き込まれたせいで、気付くと2駅先の代々木だった。
すぐさま反対のホームに。
乗り過ごしたことさえ気づかないくらいの満員電車だった。

渋谷に着く頃には、日も落ちてハチ公前(田園都市線の連絡通路がある)は待ち合わせや、これから飲みにいく人でごったがえしていた。
シンプルな乗り換えなのに、なかなか着かない。
そんな印象だったのを覚えている。

新玉川線(田園都市線の旧称)でふた駅乗れば、サンチャだ。
ガコーン!! とぶっきらぼうにしまる車両ドアに、なぜだか東京からの小さい洗礼を受けた気がする。今の田園都市線にその面影はない。東京でも「住みたい沿線」の上位に入るほどの人気路線だ。

地上に上がってきてから「茶沢通りの看板を目印にきて」と、居候先の同級生のメール内容を思い出す。頭の上には首都高が走ってるし、大きな4差路だし、どこかなあ。なんだろうあのデカい茶色いビルは。

とか思いながら、同級生のマンションにたどり着いた。
「よく来たね」 ? ちょっとよそよそしい感じ(後にちょっとした事件に発展)だったが、家を借りるまで悪いけどお世話になるよ、と。
「なるべく早く出ていくからさ」

地図を見ると、シモキタも近い。
「歩いていけそうだね。街も見たいし買物にでもいってくるか」
と、ワクワクと不安は漠然とあったけど、どういうふうに気持ちを持って行って良いのか、どう不安になればいいのか、全然実感できずにいた。

これから大丈夫かなあ。
北海道に残しているメンバー(自分は先発隊だった)も、早くこっちに呼べるようにしないと、という感じ。まず一刻もはやく生活のペースを作りたいという焦りがあった。

まずはバイト探しから、と動きはじめようと、最初の夜は眠りについた。

続く







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?