見出し画像

業界内で、差がつく理由

創作に挑む技術力は同列なのに、差がついていく現実。
クオリティーを追求しても急いでも量を増やしても、差は開く。
先駆者に学ぶ、価値の創造。

--------------------------------------------------------------------------
太一(映画家):アーティスト業界情報局
×
日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
--------------------------------------------------------------------------

『 自分で、生きる時代 』

「好きなことで、生きていく」とは、
2014年にYouTubeが発信したみごとなコピーだ。一斉停止した世界が動き出した現在、ふたたびこのメッセージが意味を持ち始めている。

社会基盤だった企業ルールが崩壊し、事業や活動の本質が浮き彫りになっている。もう、適正価格以上のサービスは選ばれず、立派な本社ビルや大勢の社員は負債になり、建て前ばかりの営業で右から左へ“紹介する職業”は、不必要だと知れた。

ひとびとは自ら、情報を獲り、選び、補完し、「情報のストーリー化」を学び始めている。中央集権型業界形態は瓦解し、中間搾取業は捨てられ、自らの力で生きる人間だけが選べる時代になった。

「好きなこと」という本質を選ぶことは、比類無き活動力を生む。
「生きていく」という能動的な意思こそが、依存を捨てた強さを育てる。

もう、社会に生かしてもらう時代は、過ぎた。業界も会社も同僚も、頼れない。好きなことで生きていく、とは、「自分で生きる」、という意味だ。

『 メジャー映画の正体 』

映画は、総合芸術だと表現される。聞いたことがあるだろう。
一方で、映画業界が「総合ブランド市場」だということはあまり、一般には知られていない。

「プロダクト プレイスメンツ」という言葉を、ご存じだろうか。広告手法の一つで、映画中の小道具として、または背景として、実在する商品、サービス、企業や人物を登場させて、協賛費を得る手法のことだ。

多分わたしはいま、映画界の、“語ってはいけない部分”について、説明しようとしている。まぁいい。

『 販売前に黒字化する、メジャー映画界 』

HOLLYWOODエンターテインメント映画においては実に、1作に80ものプロダクト プレイスメンツが投入され、映画上映前に、膨大な収益を得る。「観客が入らずに赤字に——」などというのは事実ではない。

プロダクト プレイスメンツによる黒字化が実現しない映画はそもそも、劇場公開するための宣伝費を生み出せず、公開されることはない。メジャー映画、黒字化の仕組みだ。

つまり、
映画は総合芸術であると同時に、
「総合ブランド宣伝媒体」であり、映画界は「総合ブランド市場」だ。

『 日常の“行間”を価値化する  』

映画の内容はもちろん、“宣伝用”には設計されていない。しかしその文脈に“ブランド宣伝”を加味しつつもドラマツルギーに外れない手段を見つけ出しながら、観客に悟られない宣伝を実現する。

それはつまり、元々は存在しなかった“行間を価値化”する、という作業だ。

総合芸術である映画は同時に、あらゆるブランドを内包可能な、価値の宝庫である。それがゆえに映画はいつの時代も、ハイブランドと連携しており、映画製作者たちは最上級のマーケットにアクセスしている。

“無から価値を創造する”プロフェッショナルの映画人たちはこれまで100年間にわたり、特殊技能者であった。しかし、「自分で生きる」ことが赦された現代、この特殊技能を発揮する人々が続々と現れている。

『 “価値を創造”する者だけの時代 』

これまでは「YouTuber」だった。
これからは「NFT」であろう。だがそれらは、プラットフォーム上の活動に過ぎない。

本質は、
誰もが注目せずに通過するプロセスに着目し、抽出し、披露して魅力を共有し、“価値化”を実現するそのセンスにある。

これまでの日常は、消え失せた。
非日常の全方位に注目し、スルーした存在を価値化することで、
あなたは唯一無二の発見者となり、その価値の増幅と拡大に比例して、自身の価値をブランド化することができる。

自分で生きる、とは、
存在しなかった価値を創造して、
自らをブランド化する生き方のことである。

業界に埋もれている、場合ではない。

あぁ、ところで。
まだ日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際News:アンディ ウォーホルの「NFT」がクリスティーズのオークションに出品も、専門家らが“価値の信憑性”に疑問

クリスティーズは、アンディ ウォーホル財団と協力して、ポップマスターのアーカイブからあまり知られていない“デジタルアート作品”を集めたNFTセールを開催。「機械製アンディ ウォーホル」と題された今回のオンラインセールでは、1万ドルから入札が可能で、5点のNFTが出品されている。それぞれは、キャンベルスープ缶、花、バナナなど、ウォーホルの代表的なモチーフや、2点の自画像など。富裕層の購買を狙うこの展覧会は5月27日まで開催され、収益はウォーホル財団に寄付される。しかし、一部の専門家たちが異議を唱えた。「オークションに出品される作品は基本的にコピーであり、オリジナルとしての価値を有していない」と主張。ウォーホルは、1985年に電子機器メーカーのコモドール・インターナショナル社のブランド・アンバサダーに就任し、同社からコンピュータ「Amiga 1000」を贈られ、デジタル作品を制作する際に使用した。このデジタルアートのファイルは、アーティストのコーリー アーカンジェルが、カーネギーメロン大学、カーネギー美術館、アンディ ウォーホル美術館と協力して、2014年に開始した3年がかりの修復プロジェクトで、Amigaのコンピュータから復元したことで発見された。アンディ ウォーホル財団のライセンス マーケティング セールス部門のディレクターであるマイケル デイトン ハーマン氏は、今回の売却は「デジタルアートの歴史における分岐点」であるとの声明を発表したが、ファイルを復元したカーネギーメロン大学のFrank-Ratchye STUDIO for Creative Inquiryラボを率いるGolan Levin氏は、「クリスティーズで販売されているNFTはオリジナルとはかけ離れている」と述べた。「これらのNFTは、修復後に高解像度で再現された画像を現代の技術で再フォーマットし、その過程で改ざんされたものだ。クリスティーズが手にしているのは、複製や代用品だ」クリスティーズは先週、初めて競売にかけたNFT、「Cryptopunks(2020)」と題されたLarva Labs社制作の作品を、1700万ドル(19億円)で落札させている。 - MAY 23, 2021 RobbReport -

『 編集後記:』

アンデイー ウォーホルのデジタル画が発掘されたので、NFT化してオークションにかけた。しかしその発掘者自身が、「そもそもデータ化で改変されたコピー作品だから、オリジナルの価値は無い」と公言した、という記事。

作者がアンディ ウォーホルであることが、この問題を難しくしている。
ウォーホルは雑紙広告のイラストレーとして名をあげ、商業デザイナーを経るが、アーティストの内面性が評価されることを嫌ってイラストレーションを放棄。大量印刷表現技法を駆使して、ファインアートに移行。アートワーカー(芸術労働者)を雇用する、作品量産事業者として成功した人物。

そもそも、改変された量産品を“オリジナルの価値”とした作家だ。中には、彼の絵を気に入らなかった俳優のデニス ホッパーが作品をピストルで撃ったことを知り、“その価値”を、共同制作作品として発表したアーティストである。

存命だったならきっと、この“データ化でピクセルが歪んだ改変版”も、オリジナルとして再発表しただろう。

Amigaで製作されたオリジナルは、320ピクセル×200非平方ピクセル、アップコンバートされたクリスティーズで販売されているNFTは、6,000ピクセル×4,000ピクセル。たしかに歪むだろう。だが、この話題もまた“価値”だ。

Amigaは当時、映画「ジュラシックパーク」(初回作)で実写クオリティのCGシミュレーションを世界で初めて実現した、伝説のマシンだ。

モニターとセットで販売されていた、当時としては画期的な抱えられる程度の小型マシンが自社アトリエに届いた日の興奮は、忘れない。映画のアナログ技術全てがデジタルに駆逐されるかもしれないという、恐怖もあった。

しかし、奇跡頼りのモデリングとアニメーションを経て、予測時間も不明な膨大なレンダリングの果てに生み出されるCG動画には、“出力方法”すら無かった。高価なマシンながらも黎明期の不出来な仕上がりに、落胆と安堵で笑いあったのを想い出す。

クリスティーズならこのオークション後、復元したAmigaごと“物理出品”すれば良いものを。データをアウトプットできない、というリアル。その内部に“オリジナル作品”が入っている、という価値が創造できることくらい、
想像できるだろう。

回顧を捨てて現在だけに集中して未来を紡ぐ、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記