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【NFTの真価】アーティストが作品価値に差を描く時代は過ぎて

美味い店を探す時代が終わったように、作品の価値で差をつける創作の時代は過ぎた。このトピックでは、「アーティストに必要な価値」を、知ることができる。技術に自信がありながらどうしても同業他者との差を縮められないアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 作品には、適正の価値がある 』

価格の話ではない、作品が有する“適正価値”についての実に難しい話だ。アーティストが人生を賭した作品はこそ当然に、プライスレス。しかしそんな綺麗ごとはさておいて、ここ「アーティスト情報局」だからこその本質を解いてみる。

物議を承知で、申し上げる。
作品のクオリティには、差がある。そして、高評価な作品が上質なわけでは無くまた、価格と作品クオリティは連動していない。最重要なのは作品だけでは無く、作品を生み出している「アーティスト自身の価値」である。

時代の先端でいま「NFT」が、それを証明している。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:NFT展示会、最新事情

ギャラリーで展示する際に、作品が「NFT」であることを伝える方法はあるのだろうか。サイモン・デニーが2017年にベルリンのシンケル パビリオンで「Proof of Work」を開催した際、ブロックチェーン資産をオフラインで確保するためのデバイスであるビットコイン ハードウェア ウォレットにCryptoKittyを展示した。

しかしここ数カ月、暗号アートの展覧会が盛んに行われるようになると、ほとんどのキュレーターは、ブロックチェーンで検証されていないデジタル画像と同じように、モニターやプロジェクターを使って展示している。

NFTの技術は、単一のファイルを認証することで、デジタルメディア特有の可変性や多様性を打ち消すものだ。デジタルファイルをギャラリーのモニターに固定し、それをフルスクリーンに拡大することで、イメージに存在感と重厚感を与え、対象性の人工物を強化している。皮肉なことに、ギャラリーで見られる作品のバージョンは、NFTに裏付けられたものとは限らない。

「物理的な展示」というと、NFTのバージョンを展示することが多いが、「Decentraland」はNFTの本物の環境に限りなく近い展示プラットフォームだ。そこにある“仮想の土地の区画”をNFTとして登録し、インワールドの暗号通貨で販売しています。この「土地NFTにアートNFTを設置」するということは、検証済みのファイルを呼び出すということだ。

Decentralandのサザビーズの区画では、トップハットをかぶったオークショニアが、CryptoPunkのアバターとMcCoyのQuantumに挟まれてドアの前で人々を出迎えた。中の部屋は綿密にコピーされている。JPGやMP4は、写真を設置するときのように黒いフレームに入れられ、Decentralandの展示会でよく見られるアートのように壁に張り付いてしまうことはない。

ドアの上の黄色い看板には「The Artist Is Online」と書かれている。展覧会のデザインもより洗練された革新的なものになっていくだろう。 - SEPTEMBER 09, 2021 ARTnews -

『 ニュースのよみかた: 』

クリプト アートである「NFT」が活況ながら、展示方法は“画像展示”と“モニター表示”が主で革新性を求められていない。そんな中、「仮装土地NFT」が販売になったことからそこにNFTを展示すればはじめて、本来のクリプト アートとして機能する、という記事。

ただ展示したなら、“暗号芸術”とただの作品に区別がつかないために、展示方法にも差別化を、ということだ。なるほど“商業思想”は映画界を越えて、芸術界にも浸食している。明確な価値化を証明せねば、作品価値がない、と想いこんでいる。それ、もう古い。

人々はNFTの購入に、“作品価値”を求めているのでは無い。NFT誕生までのストーリーと、高額購入を取り上げるメディアNEWSまでもがコミュニティを介した価値であることを知っている。つまり、作品の価値は一部であり、その前後「プロセス」も含めて作品だ、ということである。

初詣のお賽銭にKPIを求める者は多くないだろう、NFTの購入とはつまり、「NFTを購入する」という“体験への対価”だ。追求すべきは、「体験の拡充」である。

『 作品のリリース 』

なんとも無機質で、アーティストにとってはなかなかに残酷な凶器である“リリース”という音しかし、必須だとも理解しており。

作品は発表を経て、“商品”と同列に扱われる。
こめられた“想い”が評価対象外に追いやられるこの状況に感情はささくれるが一方で、観客の元へと作品を届けてもらうための崇高なプロセスだと知っている。

作品の価値とは、状況とプロセスにおいて変化するものである。

『 デジタル作品、という価値 』

オンラインで展覧会を開催するアーティストや団体は、デジタルアートと技術に精通している。しかし、既存のギャラリーや興行主はまるで詳しくない。商業目的からソリューションとして活用しているに過ぎずそれとて、アウトソーシング頼りだ。

もしもあなたが“デジタル”を駆使するアーティストなら、そのマーケティングからブランディングにまで、あらゆる知見に精通しなければならない。得手不得手を判断している場合ではない、業界も既存プラットフォームも当てにならないのだから、アーティスト個人が総てのノウハウを持つべきだ。

ソリューション各部にスペシャリストは、存在するしかしアーティスト自身が詳しいことは、発注者としてのルールである。丸投げなら、時代遅れだ。

『 アーティストに必要な価値 』

作品クオリティが重要で無くなったわけではない、「すべての作品が最上級クオリティ」になっているために差がつかない、という話だ。アーティストに重要な価値とは、「徹底したアーティスト本人の価値拡充」である。

そのオプションとして、
ツール、ガジェット、プラットフォーム、国際ルールにまであらゆる「デジタル ソリューション」に精通すべきだ。無理なんて無い、できているアーティストがいる以上、言い訳は通用しない。他者ができて自分が遣えない技術があるなら、あなたはその下位だ。

最重要なのは、「国際マナー」。
どんな人生の瞬間にも、“汚れた靴”を履いてはいけない。
それが“入り口の挨拶”だ。


『 編集後記:』

そろそろアーティスト脳が、マルチ ハイフネーションへと切り替わる。“ハイフンで区切るように複数の業務を並行する”という意識だ。

「一流アニメーター“GINZA×オンライン”ハイブリッド個展開催」「国際映画プリプロダクション」「膨大なNFT作品キュレーション」類する「国際映画用LLC起業」「全プロジェクトのマーケティング検証」そして、日本、ハリウッド、メキシコ、ロンドンでのスタッフ会議へ。

無理だ。これはもうマルチではなく、思考の暴力だ。
そこで、すべてを「ひとつ化」することにした。
すべてのプロジェクトを徹底LINKして、シナジーに依存する。

あぁ、わたしの回りが「天才だらけ」だったことに感謝して。

昨日と今日の狭間を生き続けながら未来を目し、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記