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日本アニメーション界という頂点

日本アニメーション界が、世界の映画界の頂点である。
このトピックではアニメーターに学び、世界頂点での活動実態を知ることができる。クリエイターとアーティストたちが、国際的な成功を獲得するための準備になるだろう。

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太一(映画家):アーティスト業界情報局
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 国際映画界の頂点、日本アニメーション界 』

日本列島は、小さくない。
世界で4番目に大きい島国であり、ドイツ、イタリア、イギリスより遥かに大きい。だが世界は、そして我が国の国民たちまでも、“日本は小さい”と想いこんでいる。

理由がある。
日本が小さいのは、“業界”なのだ。

国際的なロビー活動の場で各国が目にするのは国の面積ではなく、その国の“業界”である。言葉の壁と安泰な島国に慣らされた日本人は、国際ロビー活動が苦手である。言葉を選ばずに言ってしまえば、“引くほど下手”であり、この人類史上最大の“加速”現代においてもまったく進歩しないままに、20年を経過している。世界は日本の業界を観て、「小さい国だ」と理解している。日本人はそれを、一切否定していない。

では、スケールではなくその、“地位”はどうだろう。世界第3位の経済大国である日本の中でも突出している頂点にあるのが、「アニメーション業界」である。マーケットとして圧倒的な王者“Disney”を以てして、“日本アニメーション業界との対立を回避”するために、コンピュータ グラフィックスで作成する“3DCG”へと技術シフト事実が証明である。Disneyは「美女と野獣」以降、日本が中核技術とする“手描き2Dアニメーション”の技術を、諦めた。ワーナーが開発したとされる “リミテッド アニメーション” 技術は現在、日本のアニメーターが頂点に君臨する独占ジャンルである。

いや、“あった”、というべきだ。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:アヌシー映画祭でパイロット版が絶賛されたのは、フランスが手描き2D手法で映像化した、村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹の物語「Blind Willow, Sleeping Woman」を2Dアニメーションで映画化したのは、ピエール フォルデス監督、プロデューサーのタンギー オリヴィエとエマニュエル=アラン レイナル、そしてフランスのミユ プロダクションズのアーティストたちだ。

金曜日に開催されたアヌシー映画祭で初公開したこの作品の“パイロット版”は、著名な日本人作家「村上春樹」の独特の作品スタイルを、現在の一般的なの長編映画とは異なる、“2Dアニメーションの手法”で映画化したもの。

村上春樹の描く空間は、セックス、シュールレアリズム、タバコが彩っている。眠れぬ夜をジャズで満たすような、空想に限界のない世界である。フランス、カナダ、ベネルクス合作の600万ユーロ(710万ドル)を投じた長編デビュー作でフェルデス監督が再現しようとしているのは、そんな世界だ。

フェルデス監督が語る。「村上氏は、村上氏の“短編小説をいくつかつなげて長編にする”という私のアイデアを、とても気に入ってくれました」

フェルデス監督は、独特の映像化手法を選んだ。アニメーターは各ショットの実写のリファレンスを撮影した後、俳優の頭をキャラクターの顔の3Dモデルに置き換え、その輪郭を鉛筆でなぞって顔の表情を再現し、最後に輪郭に色をつけている。

「俳優の顔にモーションキャプチャーのドットを付けるのではなく技術の常識を一歩後退して、アニメーターに頼る、というチャレンジでした」とフェルデス監督は言う。「私たちが選んだメディアは、“2Dアニメーション”でした。CGで作成した“3Dヘッド”はキャラクターを定義するためのものですが、その後、アニメーター自身に俳優の顔の表情を解釈して、手描きで表現してもらいました」

監督は、モントリオールのスタジオで実写版を撮影した後、フランスに戻ってアニメーションのフレームに命を吹き込んだ。現在はカナダに戻って合成作業を監督するために、国境の規制が緩和されるのを待っているところだ。

映画の制作が終わりに近づいている中で監督は映画のスコアの作曲に、Kickstarterでクラウドファンディングを開始する予定だという。一方、本作プロデューサーのRaynal氏たちは、映画祭への出品の可能性を検討し始めている。Variety誌に「来年の春には作品を完成させたい」と語り、カンヌを目していることを明かした。 - JUN 19 2021 VARIETY -

『 ニュースのよみかた: 』

アニメ界の頂点であるアヌシー国際映画祭で公開されたパイロット版の映像表現が絶賛された映画は、村上春樹の世界をフランス人たちが“手描き2D”表現にこだわって映像化している。原作は“複数の短編”からなり、それを“一話の物語にする”ことを村上春樹氏が大変喜んで実現できた。来春に完成させてカンヌ国際映画祭を狙う、という記事。

私事恐縮ながら羨ましさしかないこの記事の内容にわたしは実のところ、冷静さを欠いた。

“2D手描きアニメ”へのこだわりを熱烈アピールしているが、実写をトレースするロトスコープ手法のモーションであり、頭部は3DCGリファレンスの手描き転用。ヌルヌルな身体の動きに、固定された輪郭内で誇張されて動くフル原画に近い表情、が本作でいうところの個性だと理解できる。
まるで、「2D手描きアニメ」ではない。

だがわたしが羨ましいのは、ふたつ。以下は純度100%のひがみである。

『 ニュースのよみかた: 宮部みゆき“鳩笛草”という夢』

先に、私的な想いを回収しておく。

わたしは2010年12月から、直木賞作家の宮部みゆき先生の事務所に出入りさせて頂いていた。10年前に出逢った先生の御著書「鳩笛草」の、映画化準備だった。

悲しくも美しい爆発的な感情が描かれている傑作は、
“3話の短編”からなる1冊だ。

前年の夏に購入した100冊の光文社文庫版を配りながらわたしは、映画化に向けた準備を続けた。読み込んだページは目的の項を瞬時に開けるほどで、台詞はすべて暗唱できた。「鳩笛草」という人生を、生きている気がした。

世界観が統一されているこの作品をわたしは、
「1本の映画の中で同時進行する物語」として提案させて頂いていた。
(わたしが上記記事の村上春樹先生作品の、“統合”に嫉妬する理由だ。)

ご担当頂いた宮部みゆき先生事務所の河野プロデューサーの、快諾を得た。およそ2年におよぶ脚本執筆を続ける中で十分な予算を獲得し、国際配給と国際映画祭への路も開きはじめた頃には、キャスティングをはじめていた。

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しかし本作への未来は突然、消滅した。

いまも夢に観るこの挑戦には、明確な敗因が無い。パズルのピースはすべて揃っており、同業者が羨むスキームであったしかし、具体への仔細を整える作業の中で同時多発的に発生する不調和がノイズを生み、“時間”という神の一息で映画「鳩笛草」は、音も無く消えた。

手元に残っている18稿ものSCRIPT(映画脚本)は未だ、開けないままに。
映画のプロジェクトは時に、“総合芸術”だと表現される。一方で、およそ30もの部署を“総合”するのは、並大抵の労ではない。

映画は、誕生それ自体が、“奇跡”である。

『 ニュースのよみかた:フランスと日本アニメ界』

わたしが羨ましい2つ目は、「デビュー作でありながら監督がカンヌ国際映画祭も期待する“アニメーション”を手がけられている」点。つまり、フランス人が創る、ジャパンIP.の、アニメーション映画を、フランスのカンヌ国際映画祭に運ぶ、プロデューサーの目利きだ。

日本のアニメーション業界にはなぜか、“フランス人”が多い。なんなら、フランス人プロデューサーが、日本人アニメーターを率いている場面すら在る。言語の壁は、フランス人が越えてくる。技術とセンスを、日本人が越えていく。そのコラボレーションは美しく、穏やかだ。

日本のアニメーション業界は、とても純粋な想いの中にある。
想像だに恐ろしい作業量を消化しながらそれでも、才能たちの作品への想いは真っ直ぐで、創作への妥協は一切無い。互いを認め合い、影響し、影響されながらしかし、進化を続けている。

フランス人たちは母国のアニメーション業界を経て、日本の中央線沿線を目指す。日本アニメーションの中枢を、だ。母国にいれば日当3.5万円を稼ぎながらチームを率いるレベルの彼らは日本アニメーション界に踏み込んだ瞬間、日当1,000円に届かない、“動画マン”からのスタートとなる。それでも彼らは、日本に来る。日本を目指し、世界頂点のアニメーション制作を目指している。

わたしは上記記事が、このフランス人たちにどう受け止められているのかを知るのが怖い。温和で他社へのリスペクトに溢れている“日本アニメーション界の中のフランス人”は、本作を認めるだろう。しかしわたしは、毎年1ヶ月を過ごしているフランスで、彼らの“熱い”本質を知っている。

日本で闘うフランス人アニメーターたちが目指しているのは、ハリウッドが捨てた技術にして世界最高の職人芸「手描きリミテッド アニメーション」。日本の手描きアニメーションは数字においても、世界の頂点である。

我々現代日本人は、世界が学ぶ日本の技術を、護る必要がある。

『 世界の頂点を生きるアニメーターの日常 』

地味だ。国際映画祭の会場で自己紹介した瞬間に、各国ジャーナリストたちが一拍停止する程度に、地味である。自己アピールをせず、前に出ず、聞かれるまで答えることなくしかし、地位は世界の頂点でありながら、経済的に恵まれているのは上層のごくごく一部のみ。まるで、世界の逆だ。

それは日本人の美徳であり近年においては、そのストイックさもまた、評価の対象になっている。その状況を世界に知らしめたのが、先の“フランス人アニメーター”たちである。日本人の美意識、徹底した努力、妥協無い向上心そして、影に徹する職人気質。

『 日本人アニメーターの近未来 』

しかし世界は、“他者から評価される時代”を終えた。現代は、「活動過程も作品の一部」でありつまり、“アーティスト本人が出演”しながら、世界への扉である“カメラ”の前に立つ時代だ。本人の意思や、業界、日本道徳に反しても、それが“観客”の求める作品形態なのだ。

日本の頂点、アニメーション業界はそれでも、少しづつ、変わろうとしている。アニメーターというアーティストたちは世界の頂点に立ちながら小さな作画机に向かう日々に、気づきはじめている。自分たちが作品を描き出すその延長に、自分たちの“声”が求められていることを。

『 アニメ界と日本“実写”映画界との関係 』

わたしたち実写映画界は、アニメーション業界のおかげで、維持されている。個人的な想いや葛藤はあれど、それが現実である。日本アニメーション業界が中国やフィリピンの企画作品の外注に消費され、日本の技術がNETFLIXに吸収されて量産され、出荷されてコモディティー化した後の世界で日本の実写映画界は、単身で生き残る術がない。

だから“実写”映画界は、日本のアニメーターたちを、護る。
日本のアニメーターたちが、“日本アニメーション業界”自身だからである。

わたしたち実写映画界は、本業の「ドキュメンタリー」「番組企画力」「演出力」「メディア ネットワーク」「ブランディング力」を駆使して、アニメーターたちを撮り、描き、発信する。

それが日本映画界を護ることになるのだから、躊躇いなどない。
実写映画界に限らない。「地上波テレビ」「広告」「ファッション」「教育」「コングロマリットの国際進出」「国際ロビー活動」すべてにおいて、“日本アニメーター”からの恩恵を受けた結果に、現状がある。

クリエイター、アーティストたち同志は業界、ジャンル、キャリアの壁を越えて、「日本アニメーターのブランディング」に貢献、応援してはどうか。

それはそのまま、貴方の活動の武器となり、
「世界の頂点とのコラボレーション実績」になる。

『 編集後記:』

配信環境の最適化、という楽しみがある。
映像業界に35年を生きたわたしだが実のところ、“配信”というジャンルに精通しているとは言いがたい。映像は撮影するものであり、編集を経て磨き、完成への闘いを経るものなのだと身に刻んできた。

一方で配信となると、まぁ“撮って出し”。その瞬間のライブ配信なのだから当然ではあるが映画人にはまるで、“未調理の実食”である。なるほど、素材での勝負だ。撮影のその瞬間にかける撮影部、照明部の尽力を知り抜いているがゆえに、その領域を真似るのは気が引ける。

わたしは“担当の垣根”を、極端に重要視しているタイプの映画人なので、自身のカメラのファインダーを覗くことにも、躊躇いがある。だからこその背徳感で、「配信環境の最適化」を趣味のごとく、楽しませてもらっている。

ただし、“撮影にわか”なくせに一流の機材を購入して、フォトグラファーやまして“シネマトグラファー”を名乗っている人物をわたしは、「監督」とは認めない。それは、プロフェッショナルなスタッフへの、愚弄である。

専門職のプロフェッショナルと共に、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

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