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【表現方法の選択】目的を伝えるためにアーティストは手段を選ぶ

変えられない作風に反してアーティストは器用に、表現手法を変えてくる。観客の意識が激変している現代にそれは、最重要なソリューションでもある。このトピックでは、「伝える技術と表現方法の留意点」を、知ることができる。作品と表現手法に疑問を持たず既存の方法を自動的に選択しているにもかかわらず発展しないことに困惑している矛盾アーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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監督がスタジオから発する生存の記
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『 伝える、と“伝わる”の因果関係 』

アーティストは作風を変えられない頑固さを保持しながら実に器用に、「表現手法」を変える。映画監督が企業プロモーションを手がけたり、女優が広告モデルを務めたり、絵描きがLiveパフォーマンスを舞ったりする、程度が低くて見苦しいあれだ。言葉選びが良くないだろうか、事実なので問題はない。

アーティストには自身の作風を主張したい頑固さがゆえに、手段を選ばない稚拙さがある。それは、自分さえ意思を変えなければ世間もそれを認めてくれる、と信じていることによる。当然に、そんなことはない。企画の売り込みばかりしている映画プロデューサーはただの“営業”であり、映画人ではない。美肌とファッションを誇って「え!!モデルさんですか!さすがお綺麗ですね!」と言われるのは、美肌でファッションセンスがある一般人である証。

たとえば、現在Amazonの子会社となっている「IMDb」(Internet Movie Database)というコンテンツ産業界最大の国際データベースでは、「肩書き」が選べない。エントリーされる作品情報と業界キャリアから導かれる総合的な評価が自動的に、その人物の職業として表記される仕組みだ。

“表現手法”がアーティストの評価を定めている、ということだ。
どれだけ哲学を持って決意の元に生き方を説いて“伝える”努力を重ねても、「伝わる」印象が、貴方の評価となる。「伝える」メッセージ通りに「伝わる」人間を生きる必要がある。

国際的な成功者を目的とするなあら、国際的な成功者として生きることが必須条件である。今日、いまこの瞬間も。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:クリステン スチュワート、映画「スペンサー」で演じたダイアナ妃との共通点を語る。

「ダイアナ妃は、正直じゃないと感じるものからすぐに逃げ出し、私はその正反対のことをしている」とクリステン スチュワートが語る。

クリステン スチュワートとダイアナ妃の人生を見ていると、比較するのは簡単だ。2人の若い女性は、公私ともに絶え間ない監視の目にさらされながら、スポットライトの中で成長してきた。

「私の人生にはたくさんのカメラがあり、私が大切にしていることを人々に話さなければなりません。でも、ひとつだけ重要な違いがあります。それは、私は、本当に邪魔されない自由な方法でそれをすることが許されている。ということです」

スチュワートは映画「Spencer」で王室の世界に足を踏み入れ、現代で最も有名な女性の一人を演じるという困難な任務に挑んでいる。このネオン映画は、国際映画祭で成功を収め、スチュワートの受賞シーズンの話題となった。

「私は間違いを犯したり、変化したり、進化したり、時間や視聴者、世界と共に成長することが許されています。彼女は、そうじゃなかった。多くの人に写真を撮られて迷惑していると思うのは簡単ですが、そのレンズが存在する理由は全く違うんですから。比較するのは難しい。」スチュワートは付け加える。

「私は、嘘を広めることを強いられることがどんなことなのか、想像することさえできません。私はこの映画を作ることが大好きだったし、この映画を作っているときに、私たちは超越的で正直でパワフルなことをしているのだとわかったからです。私は、自分が何者なのかもわからないし、自分がどれだけ人間的なのかもわからない。私たちは皆、自分の経験をとても正直に話していたので、もし人々がそれを見てくれなかったら私は、もう映画を作るのはやめよう、他のことをしよう、と思うでしょうね」と付け加えた。 - OCTOBER 25, 2021 THE Hollywood REPORTER -

『 ニュースのよみかた: 』

女優クリステン スチュワートが伯爵家出身王族を演じる上で感じた現実との違和感を露呈、という記事。

一般的に人々は、「自身=職業」を生きる。一方でアーティストたちは日常的に異質なファンタジーを生き時には、「創作された自身」との乖離を経験する。異なる自分から逃げないことは、多くの人々にとって有効な活動方法だ。

『 伝わる生き方 』

日常的な自身の立ち居振る舞いが、アーティスト本人の肩書きを自動設定していることは既報の通り。“やれば出来る”という評価は、「出来ない者」のみの称号だ。

伝わる生き方、を徹底する必要がある。
たまにだらしない、たまに低品質、たまに失敗するならそのアーティストは最上級では無い。自身が求める地位に応じて、ゴミ捨てに出る服装にも妥協は許されないのが当然なのだ。

不可能ならば、その地位を求めることは許されない。その地位を生きている先人に失礼だからだ。現在の自身が伝わるままの自分であり、それ以上を目するのなら徹頭徹尾、“その地位の人物”であらねばいけない。例外は無い。

『 伝える技術 』

一方で、自身とは異なる「創作された自身」を活用する人々がいる。“嘘や偽りの自分”ではなく、“伝える”ことを目的とした技術の話。俳優が役を演じるように、役割りに相応しい創作だ。

アーティストは創作のプロフェッショナルでありながら実に、そのメッセージを他者に伝えることが苦手な人種である。しゃべり出したなら着地点を観失い、独り語りに終始することもしばしば。ならばこそ、“自身”で勝負する無謀を犯さずに、伝えることに特化した“技術”を選ぶべきである。

世界一時停止以降、時代の“価値観”は激変した。アーティストは作品の外で、語り、伝える必要がある。ならば、「伝わる自身」というチャネルを用意すべき。残念ながらそこに簡単なソリューションは、存在しない。

ブログを書き、動画がを発信し、
“発信”という技術を選んだ自身が、“アーティストである自身のキュレーター”となって、その真意を発表し続けることが有効だ。毎日。作品毎でも週に1度でもなく、「毎日」だ。

なぜか。
アーティストの地位認知は、“日常の観え方”で自動的に決まる。たとえ1日たりとも気を抜かず、アーティストである自身を伝え続けねばならないためだ。

『 表現手法の留意点 』

ただし既報の通り、アーティストとしてのコアコンピタンスから逸脱しては本末転倒。“伝えるべきアーティスト像”に相応しい「表現手法」を選択することが重要だ。

特に、“情報発信”において。
一般観客は、映画監督が連日Upする“お世話になっている企業情報”など観たくない。女優がスポンサーに媚びる姿を観たくない。映画プロデューサーの「また新たな出逢いから新企画始動」などという名刺交換しただけの誇張は見苦しく、一般人にマウントをとりたいだけで美肌を磨くフリーモデルはただの一般人である。アーティストなら相応しい、「正しい表現」だけを選ばねばならない。

表現手法はそれこそ、無限である。重要なのは、「伝えるべきメッセージ」と「伝えるべき自分」が同一になる手法だけを選ぶことだ。

今日のおしゃれランチを発信していいのは料理人か店、フードコーディネイターなどの類する者のみ。街撮りは営業マン、すてきな雲はロケ中の俳優かアビエイター、画も歌もダンスもヨガも料理もプロフェッショナルな占い師などは黙って、一般人を生きるべきである。アーティストには、なれない。

『 編集後記:』

「——と同時に、」

という言葉が選ばれた時点でその話題に、オチは無いと覚悟するようにしている。スポーツ選手のヒーローインタビュー的な、あれだ。わたし自身も話が上手い方ではなく、想いばかりが先走ってダラダラと喋る癖があると同時に、作品への覚悟を正しく理解頂く努力が必要だと想っている。

想うのは勝手だが、誰にも観えない。
アーティストの脳内はいつも、賑やかであり。

語らず観せるために、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記