FRATZフェスティバル3日目

FRATZフェスティバル3日目

FRATZフェスティバルに来てから3日目。知り合いが何人かできたのと、フェスティバルのあいだどう振る舞えばいいのか分かってきたことから、無駄に緊張したり疲れたりしなくなってきた。シンポジウムがメイン会場であるPodewilで行われるので、フェスティバル参加者の多くはこの建物のなかにいた。また、FRATZフェスティバルの素晴らしいのは、料理と飲み物が用意されていることだ。しかも、ビーガン使用で肉や魚が使われていない野菜中心の料理である。これがとても美味しいので、本当に参加してよかったと思う。ロビーのテーブルに料理が置かれ、テーブル前はつねに社交パーティーのようになっている。毎日参加していれば、嫌でも顔見知りになるので、あいさつしやすい。ロビー内にソファーなど座れるところが点在しているのも素晴らしい。

GEIPS Theater(ドイツ)
Vier sind hier
演出:Sabine Trötschel
2才以上

GRIPS Theaterはたぶんドイツで一番知られた児童青少年劇場だと思う。その存在を知ったのは新野守広著『演劇都市ベルリン』だった。ドイツの児童青少年演劇が、単純に童話をやるのではなく、セックスや暴力といった社会的なテーマに取り組んでいることを知った。主に中高生を対象にしているイメージを持っていたので、FRATZフェスティバルで上演される作品がどんな作品なのか気になっていた。

「Vier sind hier」とは、直訳すると「4はここ」となる。てっきり4という数字で思い切り遊んで見せる作品かと思ったら、そういうわけではなかった。登場する演者が4人という以外に4の要素は見られなかった。これまで、乳幼児演劇には中心的な素材があるものだと思っていたが、そういうものばかりでもないようだ。ドラマトゥルギーとして中心的な素材を決めるやり方があるだけで、それがなければならないわけではない。「Vier sind hier」では4人の演者たちが舞台上の小道具を用いながら遊んでいく。悲しんだり喜んだりすることもあるが、そこに一貫したドラマを求める必要はない。

巨大なテーブルが舞台上にある。一人の女性がそれを見ながら「groß(大きい)」とつぶやく。また「großartig(すばらしい)」ともつぶやく。状況と単語を組み合わせた簡単な言葉遊びだが、思わず笑みがこぼれる。今度は舞台裏から巨大な布を引っ張ってくる。どうやら巨大なテーブルにかけるためのテーブルクロスのようだ。なんとかテーブルの上にかけようとするがうまくいかない。一部をテーブルの上にのせることができても、別の部分をのせようと引っ張るときに落っこちてしまう。本人はまじめに取り組んでいるが、客席から見ると、明らかに失敗することが分かる。こうしたシーンはクラウンショーなどで見られる基本的なものだと思う。私たちはどうして、このようなシーンを笑いのシーンであると知っているのだろうか。

別の3人がやってくる。やんちゃな細見の男と、がっしりした男、それから背の高い眼鏡の男性。さいごの彼は俳優ではなくピアニストである。女性の様子を見て、手伝おうとするが、やはりうまくいかない。舞台のすみっこに箱がいくつか置かれているのに気づき、それを足場にして布を両側から引っ張ることでかけることに成功する。テーブルクロスがかけられると、テーブルの下は布で覆われてしまい、なかが見えなくなる。このとき、巨大なテーブルは、巨大なテーブルから別の機能を持った舞台装置へと変容する。演者がテーブルクロスの向こうに行ってしまえば、観客はその姿を追うことはできない。

しばらく巨大な日用品を用いたシーンが続く。やっていることはごくごく日常的なやりとりだが、その道具が巨大になっていることで、その日常的な動作が際立って見える。巨大なズボンを二人で穿いたり、巨大な櫛でお互いの髪を梳いたりする。ピアニストが小さいピアノを持ち出して引き始める。おもちゃのピアノを弾こうとするが、楽譜があまりに小さいので、うしろの3人が巨大な眼鏡をピアニストの目にあてがってあげる。

3人はピアノの伴奏に合わせて歌いはじめるが、しだいにふざけて歌どころではなくなってしまう。そのことに拗ねたピアニストはテーブルクロスの奥に隠れてしまう。ほかの三人はそれを見て、彼を追ってテーブルクロスのなかに入ったり、音楽をしようとしたりする。ここから、テーブルクロスの舞台装置を用いた影絵の演出が中心となった。

テーブルクロスのなかで懐中電灯を使い、自分の影や蝶々の切り絵を用いることで、テーブルクロスのスクリーンにさまざまな影が映る。また、外側にいる演者も、テーブルクロスに向かって懐中電灯を当て、内と外の両側からそれぞれの影を生み出すことができる。これを駆使して、例えばこんなことができる。内側では、座ってピアノを弾くポーズをする。外側では小さなピアノに光を当てて、大きなピアノの影をつくる。この二つの影のちょうどいい具合に合わせてやることで、スクリーンにはピアノを弾く影ができる。ほかにも、蝶々を追いかけていた影の男が、スクリーンから出てきて、生身の状態で影の蝶々を捕まえようとするシーンもあった。

上演後には、子どもたちがテーブルクロスの下に招待された。演者が懐中電灯を持ち、その前で子どもたちが好きなポーズを取って、自分の影で遊んでみせる。影絵の演出が目立っていたので、上演後のワークとしては適していると思った。し
かし、これだけではなく、ピアノに合わせてみんなで歌を歌ったり、演者たちがテーブルクロスをたなびかせて、風を起こしたりしていた。

4人のキャラクターが登場し、楽しく遊んだり、喧嘩したりする点は普通の演劇にかなり近い。しかし、喧嘩して仲直りするという物語は、この作品においては全く中心的なテーマではない。上演中にはさまざまなことが生起し、次のシーンへと移っていくが、喧嘩もその一部しかなく、特別な意味があるわけではない。乳幼児演劇には物語はあるが、それは筋というメタファーで捉えることは間違いである。その都度、関係が変化するという意味で物語なのであって、序章から終章へと向かう物語ではない。物語として破綻しているのではなく、直線的な物語が求められないということに過ぎないのだと思う。

FRATZシンポジウム
Fake Lecture
„Tipping Utopia“
Stephanie Maher

シンポジウムの部屋で待っていると、麦わら帽子にロングスカート、山登り用の薄手のジャケットを身にまとったパワフルなおばさんが入ってきた。話しっぷりや堂々とした身振りから、彼女こそが今回のシンポジウムの主役であることが分かった。荷物を脱ぎながら、かなりラフな様子で集まった人たちに話しはじめた。もう彼女のパフォーマンスははじまっているようだった。台本なんてなく、その場の即興的なおしゃべりを楽しんでいるようにも見えた。リュックサックからは服や写真などを取り出して、資料として配っていく。また、自分のお気に入りの歌だと言って、歌を歌い始めたりする。

この人がどういう人で、今回のレクチャーがどういうものなのか、分からなかった。ほかのシンポジウムもそうだったが、シンポジウムといいつつ、内容や形式は千差万別で予想できなかった。今回は「Fake Lecture」という名前だったので、レクチャーに見立てたパフォーマンスなのだろうと思っていた。その認識があっているのか分からない。彼女は流ちょうな英語で、冗談とか下世話な話をしているようだった。手元のパンフレットを見て、彼女がPonderosaの設立者であることを知った。

Ponderosaは、ダンサーやパフォーマーの探究や実験のための場所であるらしい。それとと同時に既存の社会とは異なるコミュニティを実験するものでもあるようだ。聞いている感じ、ヒッピー文化に似ている。彼女のラフな態度と話し方は、Ponderosaの文化をよりよく伝えるものなのだろう。

FRATZシンポジウム
„Hast du an die Kinder gedacht?“

「子どもたちのことを考えたか」というラディカルなテーマである。登壇者は3人。コンゴのアーティストFreddy Tsimbaと、ベルリンでレジデンスをしているキュレーターのKarina Griffith、NRW州の演劇人Hannah Biedermannである。細かいことは覚えていないが、それぞれの事例を交えながら、子どもを対象とした演劇について考えるような内容だった。

とりわけ面白かったのが、ボーフム劇場の演劇教育プログラムの話だった。ドイツの劇場には演劇教育部門があるが、この部門はさまざまな力学の板挟みになっている。劇場側からしたら、未来の観客を養成するための部門であるし、子どもを持つ親からすると、子どもらしいプログラムを提供する場所である。けれども、テーマにある通り、一番考えるべきは、子どもたちが何を思っているかである。

事例としてクリスマス童話のことが語られた。ドイツの児童青少年演劇史にとって、クリスマス童話は欠かせない。どの劇場もクリスマスの時期になると、クリスマスにまつわる童話を扱ったプログラムを作っていることが多い。しかし、移民が多いドイツにとって、クリスマスというテーマに対して一定の感情が抱かれるわけではないようだ。トルコ人の子は、クリスマスに関してネガティブなイメージを持っていた。どうしてキリスト教でもないのにキリストの誕生日を祝わないといけないのか、という考えを持っていたのだ。ほかにも、クリスマスに対して否定的な意見を持っている子どもたちがいた。そこで、Hannahさんは創作劇のプログラムで、クリスマスでしてはいけないことを扱うことにした。「子どもには権利がある。クリスマスくらい子どもの権利を尊重したい」みたいなことを述べていた。

話が進むなか、キュレーターのKarinaさんから「子どもたちとは誰のことか」というラディカルな問いが挙げられた。これは一見単純なようで、実はかなり難しい問いだ。「子どもたち」と括って語るが、もちろん個人で異なる。Hannahさんは、子どもたちと作品をつくるときは「zuhören als etwas sagen(何かを言うことよりも、聞くこと)」と述べていた。それぞれの子どもにはそれぞれのコンテクストがある。家族や友人などの人間関係、最近身の回りで起こった出来事など。それぞれのフラストレーションがあり、それに対してどう対応できるか。そのためにはまず、対話のための空間をつくる必要がある。そして、そのためには安全であることが求められる。

話を聞くべきは子どもたちだけではない。自宅や学校とは別の劇場空間だからこそ、親や教員と別のコミュニケーションの仕方を模索することができる。Hannahさんのクリスマス劇への感想はFacebookを通してやりとりしたという。否定的な意見も多いが、肯定的な意見もあった。問題は否定か肯定かという点ではなく、意見を聞くことにある。

最後の方で客席から「子どもたちの反応はどうだったのか」という質問があった。また、それに関連させて、このシンポジウムに対する批判がされた。このシンポジウムは「子どもたちのことを考えたか」というテーマである。それにも関わらず、会場には大人しかいない。そして、議論では子どもたちの声が語られなかった。もちろん、実際に子どもたちを登壇させるとなったら、誰を登壇させるのか、無理やり登壇させることにならないか、などの倫理的な問題が浮上してくる。シンポジウムはほとんどオープンエンドの形で終わったが、シンポジウム内で挙げられたラディカルな問いは、忘れてはならないものだろう。

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