note_破壊のワークショップ

【モノの演劇祭】「破壊のワークショップ」-身体的・パフォーマンス的に探究するということ

10月25日 FELD Theater
「KAPUTT: Der Werktatt der Zerstörung 破壊のワークショップ」

タイトルがおそろしいが、小学校低学年向けのワークショップである。担当するのはハンブルクにあるFundus Theaterで、演劇教育で有名な劇場である。ゼミでも扱われたが、それはこの劇場が、演劇的な手法によって特定のテーマを探究するという方法論がきわめてすぐれているからだ。日本でも演劇的手法という言葉は用いられるが、それはロールプレイなどの演じる経験に注目してのことのように思われる。それに対してFundus Theaterは、演劇における何かを演じるという点はさほど重視しておらず、身体的・パフォーマンス的に(あるいはドラマトゥルギー的に)テーマを探究するという点において演劇教育的である。

こうした演劇教育は、特定の能力を身に着けるように設計されている教育施設(学校や大学)ではなく、興味関心や思考を広げていくための文化施設(劇場や文化センター)ならではだろう。最近よく思うのは、学校に演劇を盛り込もうとするのはあまり効果的ではなく、それよりも学校の仕事を減らし、学校とは異なる教育的役割をもった文化施設に仕事を譲った方が建設的ではないかということだ。学校はすでに一杯いっぱいなので足し算の議論より引き算の議論をした方がいいし、技術発展によって教えるべき内容が目まぐるしく変化する時代なら、比較的変化しない部分を学校が担当し、そうではない部分はほかの施設が担当した方が効率的にも質的にもいい。ほかにいくらでも専門的に学んだ人がいるのに、ITが苦手な先生がIT技術について授業をつくるなんてバカげてるし、演劇の専門でない先生が演劇を教えたら悲劇が起こりうる。社会に出たら多様な価値観があり、多様なルール、多様なモードがあるのなら、教育を学校だけのものとして語るのはあまりにも無茶すぎる。

参加者は大人数人と学校1クラス分の子どもたちで計20数人といったところ。ワークショップは全部で3つに分かれていて、1つ50分くらいで間に休憩がある。この構造は学校を意識してのことか分からない。休憩時間になると、子どもたちは外のちょっとした広場で追いかけっこしたりダンスの練習をしたり座っておしゃべりをしたりと各々好き勝手に楽しんでいた。引率の先生がいて、無茶する子がいるとときおり注意していたが、後半になるにつれ、ワークショップのノリに乗っかって楽しんでいた。なお、以下の見出しは僕が勝手に付けたものである。

▶レクチャー:破壊と芸術

受付にいくと、まずは保護メガネを配られる。これからいろいろなものを破壊するが、そのときに破片が目に入る危険があるからだ。保護メガネを受け取ると、これからどんなふうに破壊を経験することになるのだろうかとわくわくする。まず案内されたのは劇場の裏口で、そこには幕のようなものが張られている。破壊というテーマはさまざまな芸術家によって取り組まれてきた。この幕はその1つの例を実際に示すためのものである。高温の温風を発するドライヤーのような機械があり、それを幕に当てると幕が溶ける。赤い幕の後ろには紫色の幕があり、表の赤い幕を溶かすことでもう1枚の紫色の幕が出てくる。赤と紫の2色によって絵を描くことができる。さらに、奥の紫色の幕を溶かすことによって、そこ先には暗闇しかないため、黒色を示すことができる。これは壊す(Kaputt)という手段を用いて芸術を創作する例である。

半分溶けた幕をくぐって部屋に入ると、まず目に入るのはスクリーン、それから部屋の壁を沿うように配置されたベンチ。そこに座ってよくよく周りを観察すると、いろいろなモノで溢れている。おそらくこれから、これらのモノを破壊するのだろう。その前にまたレクチャーが入る。スクリーンには、破壊というテーマに関する映像がコラージュされた映像が流れている。建物が破壊されるものもあれば、卵が割れて雛が孵る映像もある。破壊と創造は表裏一体だともいうが、それ以上のテーマの広がりを感じさせる映像だった。スクリーンの前にはファシリテーターのおばさん、部屋の奥には大柄なおじさん、それからテクニカルを操作する眼鏡のおじさんがいた。この3人によってワークショップが進行していく。

破壊というテーマに取り組んだ芸術家はたくさんいる。低学年向けのものとは思えないほど、レクチャーの内容はおもしろかった。紹介された芸術家の名前は忘れてしまったが、路上で起きた警官と暴徒との衝突を再現しようとする試みや、知っている名前だとコンサート上で楽器を演奏するのではなく楽器を破壊するジョン・ケージ。それから話題は、破壊というテーマに対して感じるイメージに移り、これまでの経験のなかでどういうときに破壊について考えたかという問いが投げかけられた。子どもたちは結構手を上げて、建物を破壊するときとか、兄弟喧嘩をするときとかさまざまな意見が挙げられた。レクチャーを進行するのはおばさんのファシリテーターで、その隣でおじさんが黒いボードに子どもたちの発言などをざっくりとまとめていた。グラフィックレコーダーの文字だけみたいな感じで、見たい人は見ればいいし、見なくてもいい。最初にこうしたレクチャーをするのは、これからやるのがただの破壊ではなく、破壊について芸術的に探究するための破壊だからだ。

▶ワークショップ1:いろんな素材を破壊してみる

1つ目のワークショップは、与えられた素材は自由に破壊するというものであり、そうした作業のなかで作品的なものが生まれるという体験だった。用意された素材は、本、おもちゃ、食べ物、機械だった。道具も用意されていて、ハンマーやハサミといった破壊のための道具もあれば、水や糊などのぼろぼろにするための道具もあった。子どもたちの多くは機械のコーナーへ飛びついたが、しばらくして、いろいろなところに散っていった。僕は本のところにいった。本棚には大量の本があり、好きな本を選んで破壊していいという。しかし、いざ本棚を前にしてしまうと、どんな本があるのかが気になってしまうし、一冊本を手にとってみると、破壊することにはかなりの抵抗感を覚えた。どうやって芸術的に破壊しようかと考えようとしていたが、その間に子どもたちは好き勝手に本をとって、びりびりに破いていたので、ままよ!と思い、1ページつかんで本体から引きちぎった。罪悪感とともに解放感があった。本を破壊するという行為にしだいに慣れていき、一冊の本だけではなく数冊の本をびりびりに引き裂いたし、引き裂くだけじゃなく、色鉛筆でぐちゃぐちゃに線を引いたり、テープをでたらめに張り付けたりした。みんなが次々に本をばらばらにするので、床は破壊された本でいっぱいになっていた。ファシリテーターの提案で本のくずを両手に抱えて上に飛ばすと、いろんな本のページがひらひらと落ちてきて、かなりドラマチックなパフォーマンスとなった。ただバラバラにするのに飽きてきた子は、一つの本にさまざまなページをコラージュしたり、複数の本を糊付けしたりと、各々のクリエーションをし始めた。

ある程度時間が経つと、今度はそれぞれの素材でどんな破壊をしたのか見せ合う時間となった。ファシリテーターがそれぞれの場所でコメントをしていくと同時に、テクニカルのおじさんによるライブカメラの映像がスクリーンに映される。本のところは床いっぱいに散らばった本の残骸のほか、いくつか凝った作品をつくった子の紹介をしていた。語られたのは作品の名前とこだわった点など。名前はその場で即興的につくられていて、こだわった点なんかも即興的に語られている感じがすごくよかった。おもちゃのところでは、半壊したおもちゃをどう配置しているかという点に注目された。食べ物については、パスタや砂糖などのもので町らしきものが構成されているほか、砂糖でつくられたタワーに水をかけることでその崩壊するさまを示すというパフォーマンスが披露された。この砂糖タワーの崩壊は、破壊というテーマの広がりを示す好例の一つとなった。破壊といっても必ずしも、騒々しく激しいものばかりではなく、中には静かでゆったりとした破壊もある(朽ちるとか)。機械については、一人の子がその場でハンマーを使って機械を破壊してみせた。そのとき発せられる音は暴力的だ。また、機械を破壊してみることで、ふだん使っている機械の構造を見ることができるという解剖学的な興味が沸く。

▶ワークショップ2:破壊の儀式

片付けのための20分休憩のあと、2つ目のワークショップがはじまった。テーブルが2つ用意され、1つは果物とナイフ、それからライブカメラが設置されている。もう1つは音響機械のほか、バイオリンが置かれている。このワークショップには3つのグループがある。1つは果物に対する破壊を視覚的に表現するグループで、果物をナイフやハサミなどを用いて暴力的に痛めつける。ほかに赤い水と食紅が用意されているので、切ったり穴を開けたりしたところにそれをかけることで、果物をさらにグロテスクに演出することができる。一人はカメラ担当で、果物に対して行われている冒涜的な行為をまざまざと映し取り、それがスクリーンに映し出される。もう1つは楽器を破壊することによって音をつくるジョン・ケージ的グループで、バイオリンに対してのこぎりやドリルが用意されている。弦だけでなく本体にのこぎりを引いたり、穴を開けたりする。その際に発せられる暴力的な音は傍にいるファシリテーターによってリミックスされる。そして最後が周りの席に座っているグループである。最後のグループのところには、ファシリテーターがマイクをもって回ってくるので、そのマイクに向かって「Ich zerstöre … 私は~を破壊する」と言うが、そのときの破壊の対象は具体的な物体ではなく、孤独や嫉妬などの感情である。これが全部で2回あり、僕は2回とも最後のグループだったので、何度か破壊したい感情をマイクに向かって宣言しなくてはならない。はじめは緊張したが、慣れてくるといろいろと破壊を宣言したい感情が思いつく。これまた解放感を感じさせるワークショップだった。

ファシリテーターが感じたことを聞いて回ると、楽しかったという感想もあれば、抵抗感を感じたという感想もあった。また、ファシリテーターからは、破壊と儀式の関係について語られた。破壊とは、変容のプロセスでもあり、そうした点で儀式的である。破壊をつかさどる神を信仰している文化では、神をまつるために供物を破壊する。それは神の恩恵に感謝すると同時に自分たちに破壊が降りかかってくるのを避けるための祈りでもある。バイオリンの破壊に対して抵抗感を感じる人が多かったが、それは技術と文化を蓄積した物体として認識しているからだろう。本のときもそうだったが、そうした物体を破壊するときには罪悪感と同時に解放感も沸く。そして、こうした経験は、上演によってもたらされる身体的で感覚的なものであり、理性的に言語的に再現できるものではない。

▶ワークショップ3:破壊のパフォーマンス

最後に行われたワークショップは、3、4人のグループで1分ずつ破壊のパフォーマンスをするというもの。ワークショップの参加者はそれぞれ自分の家からワークショップ用に壊していいものをもってくることになっている。おもちゃをもってくる人もいればコミックをもって来ている人もいる。用意されているのは、モノを固定するための万力とあらゆるモノを粉々に砕くミキサー。スクリーンには60秒のカウントダウンが映し出される。子どもたちはとっととチームをつくってしまったので、残されたほかの大人の人2人とチームを組むことにした。チームの1人を除いて要らないモノをもってくるのを忘れていたのだが、それに気づいたファシリテーターが声をかけてくれて、劇場で用意していた物資で破壊のパフォーマンスをすることになった。ありがたい限りだった。発泡スチロールや洗濯バサミなど魅力的なモノがたくさんあったが、ライオンのぬいぐるみを見つけたとき、グループみんなが「これにしよう!」となった。それはかわいらしいとも言えると、ややまぬけとも言えるような独特のライオンのぬいぐるみだった。ぬいぐるみを破壊する。しかも、無垢そうな表情を浮かべたライオンである。これはかなり冒涜的なパフォーマンスになるに違いないとみんなの意見が一致したのだった。それから道具群を見に行き、プランが定まった。万力に哀れなライオンを固定し、それに向かってペンチ、ナイフ、ハサミといった異なる道具を用いて解剖するのである。

全部で7、8グループほどだった。ミキサーを使って車のおもちゃを粉々にする子もいれば、ハンマーで粉砕する子もいた。いずれも暴力的な表現だ。とりわけ興味深かったのは、ぬいぐるみを取り出した子が、「これはナチです」とパフォーマンス前に宣言したことである。彼はぬいぐるみ(ナチ)をミキサーで破壊しようとしたが、うまくいかず、ハサミで切り刻もうとしたが、これまたうまくいかなかった。「Nazi überlebt ナチが生き残ってる」と誰かが言った。この結果はいい感じに現代社会を示して、おもしろい表現になったのではと思った。それからしばらく、そのぬいぐるみ(ナチ)は子どもたちの間で投げ飛ばされて破壊されようとしたが、やはり壊れなかった。

自分たちのグループの番が来た。対して練習したわけでもなく、とりあえずライオンを残酷に破壊するということだけは決まっている。最初は優しく切り、それからどんどん暴力的になる。僕はナイフ担当だったので、顔の真ん中のところにナイフを差し込んだ。ほか二人もそれぞれハサミとペンチで身体を切り裂き、布の下からは綿が出てきた。ライオンが万力から逃れたのを確認すると、3人でライオンを引っ張り合った。おそらくトランスしていたのだと思う。次に何をすべきかみんな分かっていた。3人でライオンを引っ張り合い、やがてその身体は3つに裂けた。最初のグループのパフォーマンスが行われたころから、15秒あたりで観客の子どもたちからカウントダウンされるようになっていた。それもあって、気持ちが高ぶっていたのだ。最後の瞬間、ライオンの口元の部分だと分かる布の破片を高らかに掲げ、それから投げ捨てた。やりきったという誇らしい気持ちやらチームの結束力とやらを感じていた。こうした感覚は久しぶりで、これが儀式による変容の感覚なんだなと思った。

▶全体を通しての感触

破壊は日常的にあるし、衝動的暴力的に行われる破壊もあるだろう。こうしたワークショップがすばらしい点は、破壊というやや抽象的なテーマの形で取り出し、それを具体的身体的に探究している点である。参加者は今後破壊的な状況に陥ったり、破壊的な衝動に駆られたとき、このワークショップのことを思い出すかもしれない。そのとき、破壊はよく分からない対処不能のものではなく、さまざまに分析可能なものとして思い起こされるかもしれない。大事なのは、破壊を肯定することでも否定することでもなく、そのときそのときに応じてどう関係していくかである。

驚いたのは参加者の子どもたちの聡明さだった。破壊するという行為を楽しんでいたが、最後の振り返りにおいて、彼らはそれがワークショップであることを理解していた。いろんな破壊があるが、それがどういうときに起こり、どういう状況において認められるのか、あるいは認められないのか、そしてそれはどうしてなのか。破壊を実際に試みたからこそ、これらの問いはただの道徳的問いに留まらず、実感を伴ったものとなるだろう。

いただいたお金は勉強に使わせていただきます。