FRATZフェスティバル2日目

FRATZフェスティバル2日目

FRATZフェスティバルに来て二日目。この日はシンポジウムが多く、朝に一つ作品を見てからはシンポジウム続きだった。国際フェスティバルなので、シンポジウムは英語で進むことが多かった。シンポジウムには講演形式のものもあれば、ディスカッション形式のもの、それからワークショップ形式のものもあった。朝から晩までシンポジウム祭りで、夜にはパーティー(ディスコみたいなやつ)があったが、初日からの緊張で疲れたため、早々に帰った。

YEW:kids
Schubot & Gradinger

朝10時に開演するという。メイン会場からかなり離れているので、9時にメイン会場前に集合すると、大型バスに乗ることができる。場所はBotanischer Volkspark、そこそこの広さの自然公園である。バスから降りてから、まっすぐに道が続いている。花壇があったり、グリーンハウスがあったりする。しばらく歩くと、荷物を置ける小屋につく。荷物なしで作品を楽しみたい人はここで荷物が置ける。

その近くには養蜂場があり、木箱が並んでいて、そのなかから無数の蜂が出入りしているのが見える。蜂注意の看板も置かれている。そのとなりには、少し背の高い草の生えた原っぱが広がっている。今回の作品の案内を務める演者の二人が原っぱの方からやってくる。そういえば、濡れても大丈夫な靴と着替えがあるといいと指示されていたのだった。

演者の指示に従って、原っぱのなかを突っ切っていく。こんなことをするのは久しぶりだ。子どものころは空き地で遊ぶのが好きだったが、年を経るにつれてそれができなくなる。空き地は本来、入ってはいけないものだ。自然のなかで遊ばなくなると、自然のなかに入ることに抵抗を覚えるようになる。今回も、草むらの下に蛇や蜘蛛がいないかと少し気になったが、演者や周りの参加者が楽しそうに草むらのなかに入っていくので、すぐに慣れていった。

この草むらは上演の導入のようだった。草むらのなかを自由に突き進む。しばらくして、誰かが草笛を吹きはじめる。周りに生えている草の葉っぱを一つつかみ、それを手に挟んで、思い切り息を吹くと、プーというカン高い音が鳴る。原っぱを抜けると、今度は土の柔らかいところに案内された。低くて湿っぽい草が生えている。演者の近くの集まってみると、柔らかい葉っぱが配れられる。何をするのだろうと待っていると、隣の参加者がその葉っぱを食べはじめる。どうやら食べられる葉っぱらしい。これまた、子どものころはいくつか食べられる花や葉っぱを知っていたと思うのだが、今ではすっかり忘れてしまった。葉っぱはやや甘く、酸っぱい味がした。

植物にイヤホンのようなものを取り付けている。イヤホンはスピーカーにつながっており、コロコロときれいな音がする。演者の説明によれば、葉っぱの音なのだそうだ。どの生き物にも、それぞれのリズムが流れている。バイオリズムというらしい。

よく見ると地面の小さな穴がいくつも開いている。その穴は輪上に並んでいて、参加者が一人ずつその穴のところにつくように指示された。演者は輪の真ん中に立ち、これからやる儀式の説明をしてくれる。空をかき集めるようにして、それから穴のなかに押し込めるような身振りをする。大地にエネルギーを与えるのである。土や植物、動物、さまざまな生き物の名前を唱えながら、身振りで簡単にその動物の真似をしながら、土のなかに押し込んでいく。参加者のなかには何組か親子がいて、小さな子どももその身振りを真似している。

穴のなかに手か足を入れて、その上から土をかぶせる。土のなかがひんやりとして気持ちいい。それから地面に耳を当てて、大地の音を聞くように指示される。地面がぐっと近くなる。草の根っこや茎の部分がよく見える。自然とはなんて複雑なんだろう。子どものころ、土いじりが大好きだった。それはそうだと思う。土の一粒ひとつぶはすべて違う形をしていて、その土のなかを根っこが複雑に行きかっている。土がうごうごと動いているところをよく見ると、蟻かミミズがいる。表面にある土は乾いていき、色が変わっていく。土の湿っぽい香りが鼻をつく。地面に耳をあてて、土の底の音を聞こうとすると、本当に聞こえてきそうだ。

大地の歌が聞こえてくるから、それを歌うように指示された。やや恥ずかしかったので抵抗感があったが、ほかの参加者が鼻歌やらうめき声をあげてくれるので、僕も声を出してみた。大地の歌なのだから、人が歌うようなメロディでなくても構わないだろう。リズムも周りと合わせなくて構わない。大地から染み出てくる響きを僕の身体で音に変換するようなイメージで声を出してみると、意外と楽しい。

演者の二人も歌声を上げる。二人はそのまま、奇声を上げながら、じゃれ合っていく。動物がじゃれ合っているようだった。下が地面なのも気にせずに、もつれ合ったり、転がったりする。しだいにエスカレートしていって、最後にはエクスタシーへと至ったようだ。古代のエロチックな儀式を見ているようで妙な興奮を覚えた。性的な興奮ではなく生のエネルギーによる興奮という感じ。

演者の二人は林のなかに消えていき、チームの別のメンバーから二人を追おうと指示される。ロープが用意され、それを一人ずつつかんで列になる。そのまま林のなかを探索するのだ。このロープがあることで、単なる団体の観光客ではなく、パフォーマンスの参加者であることを示すことができる。

歩いている途中では、動物の鳴き声が流れたり、演者二人が裸で逆立ちをしてオブジェになっていたりといった演出があった。着いた先では、うねった木の幹のあいだで演者二人がまたもつれ合っていた。二人をみんなで取り囲み、草むらでやったのと同じように、二人を手助けするように各々の大地の歌をうたった。演者はときおり、その歌に反応してみせ、やがてエクスタシーへと至った。これでこのパフォーマンスは終わりとなる。自然を楽しむきっかけになった。

FRATZシンポジウム
オープンスペース

オープンスペースとはワークショップの一つのフォーマットである。複数のテーブルがあり、それぞれ参加アーティストが自分の活動について紹介したり、掲げられたテーマについて議論したりした。最初のオープンスペースはそのまま自然公園で行われた。「Nesting」のShelly Etkinと「YEW:kids」から演者の二人がそれぞれのテーブルを開いた。話を聞いていると、どちらの作品も自然と呼吸についてアプローチしているという点でかなり似通っているようだ。

「YEW:kids」がかなり印象的だったので、そっちに参加することにした。上演でバイオリズムの話が出ていたが、ここではワークショップとして、バイオリズムを体感するワークが行われた。まずは演者が例を見せてくれる。椅子に座って、前後に揺れながら、腕と脚、手と足がゆっくりと閉じては開いていく。自ら動かそうとするのではなく、バイオリズムを感じて、それに身を任せるようにするのだそうだ。

すぐにはできないので、まずは椅子に座って目を瞑る。そのまま演者の指示に耳を傾ける。足が土のなかに溶けていく。足の骨が溶け、脛が溶け、膝が溶け、大地に溶けていく。腕も肩も溶ける。全身がくにゃくにゃになったイメージである。やがて、おなかから背中に向かってくにゃりと曲がりはじめる。ある程度いくと、今度は上がっていき、そのまま前に向かっていく。ある程度いくと、またおなかから背中へと向かっていく。これの繰り返しである。前後というよりも、回転だと演者は話していた。最初はさっぱりだったが、演者の補助もあり、だんだんと感覚をつかんでいった。これが本当にバイオリズムか分からないが、慣れてくると身体がひとりでにそちらに向かっているような感覚になった。

今度は二人組になって立って行う。片方が目を瞑って立ち、その後ろでもう一人が肩のところに手を置く。前の人は座っていたときと同様にバイオリズムを感じて、それに身を任せていく。後ろの人は、前の人のバイオリズムを感じて、それに身を任せていく。座ったときにコツをつかんだということもあるだろうが、二人組ではかなりやりやすかったし、かなりぐにゃぐにゃと動くことができた。コンタクトインプロで、どちらが動かしているのか分からなくなるときの感覚に似ている。

FRATZシンポジウム
ドキュメンタリー映画「Système K」
Renaud Barret

今年2月にベルリンで上映されたドキュメンタリー映画。コンゴのキンシャサのアーティスト集団の活動を映している。彼らは絵も描くし、造形物もつくるし、パフォーマンスもする。まず映されたのは、角生えたお面をつけて上裸でなまめかしく踊る男性の姿だった。それから、銃弾で人像をつくる男性アーティスト、火の煤(スス)で絵を描く女性アーティストなどが移された。彼らはどうしてアーティストとして活動するのか。彼らの活動はキンシャサの町にとってどんな影響を与えているのか。映像を見ているうちに、彼らの活動がキンシャサの社会的な状況から生まれたものであることを感じた。彼らの活動を見ながら、人々はなぜアート活動を行うのかという普遍的な問いを考えずにはいられなかった。

コンゴの歴史やキンシャサの町の状況についてはあまり詳しくないが、ゴミにあふれボロ家ばかりの風景からは、ポスト植民地の問題を思わずにはいられない。それでも多くの人々が町を行き交い、町にあるリソースを用いて生活を楽しんでいる。半屋外のダンスパーティーの映像では、腰ふりダンスに、手コキのダンスで盛り上がっていた。こういう様子に人々のたくましさを感じる。

そういう町の人々にとって、アーティストの活動はどう映るのか。バケツやらホースやらのゴミを組み合わせて宇宙飛行士の仮想をする男がいる。彼が町を歩くと、人々は奇異の目で見たり、面白がって近寄ってきたりする。何をやっているのかという質問に対して、男がパフォーマンスだと言うと、分かったような分かんないような反応をして去っていく。そんなものだと思う。

この宇宙飛行士というモチーフには、意味があるようだった。現代テクノロジーを支えている機器をつくるのに必要な鉱物はコンゴで採掘されている。コンゴの宇宙飛行士は一つのシンボルであり、それによってコンゴは誇りのある国であること、ポスト植民地の問題があることなどを示すことができる。実際にどのくらいの影響があるのかは分からないが、コンゴの宇宙飛行士というイメージは、男のパフォーマンスを見た人々によって拡散するだろう。

別の男は銃弾や刀剣を溶接することで造形物をつくっている。銃弾でつくった人の像は、壁に両手をついた姿勢をしている。布でできたパンツが、ややズリ下ろされた形で穿かせてある。武器でつくられた人像が暴力を受けている。この像の発するイメージもまた強烈だろう。作品が置かれた道を行く女の人が、「はじめは怖くて見ないようにしていたけど、だんだん慣れてきた」と楽しそうに語っていた。はじめの内は、反対する人も多かったはずだ。それでも男は根気よく作品をつくり続けたのはなぜか。そのエネルギーの根源にあるのは、世の中の理不尽に対する怒りだろう。

女性のアーティストはアルコールランプの火の煤(スス)で絵を描いていた。紙に大まかに煤を付けたあと、それを棒で削って絵を描いていた。彼女の絵は骸骨など不気味でインパクトのあるものが多かった。火で描いているのは、電気がないという状況を示しているようにも思えた。彼女はその絵をレストランの入口に飾った。通りを行き交った子どもたちが興味深そうにそれを見つめると、彼女は作品を指さしながら、この世にはびこる理不尽さを説いていた。

映画の最後の方で、かなり残虐なパフォーマンスが映された。バスタブに骨組みを取り付けただけの屋台に男が一人乗っている。顔半分を白塗りした悪魔のような衣装を着た女が、生きているヤギをその場で殺す。首元を半分きり、そこから血を抜き取ったようである。バスタブには血が注がれ、男は血まみれになりながら、そのバスタブに浸かっている。ほかの人たちがその血風呂屋台を担ぎながら町を闊歩する。ヘルマン・ニッチュのOMシアター(秘儀祭と神秘の劇場)を思い出さずにはいられない。OMシアターも十分ショッキングだが、キンシャサのパフォーマンスは、パフォーマーの命も危険にさらされているという点で、さらにショッキングだと思う。映像では臭いは分からないが、おそらくかなりの悪臭だろう。ハエが飛んでいるのが分かる。映像のなかで、パフォーマーが血を飲んでいる映像があった。思わずウッとなってしまったが、これだけのことをさせる怒りがあるということだろう。

銃弾で人像をつくっていた男性は、無数の刀剣を溶接して、一つの家のオブジェをつくった。そして、それを町の道路の真ん中に置いた。家の周りには多くの人が集まっていた。彼らはアーティストを誇りに思っていると語っていた。彼らの作品があることを誇りに思うと。刀剣でつくられた家は、資源をめぐる紛争の起こったコンゴを象徴するものだ。そのモニュメントをつくったアーティストを市民は誇りに思っていた。するとそこに警察がやってきてアーティストを連行していった。そのときの様子が映画には移されていて、町の人々は怒り、呪っていた。

これらの活動を見ると、アートと教育が深く結びついていることを実感する。古代ギリシャ・ローマで筋肉隆々の男性像が描かれたのは、それが理想の人物とされていたからだった。キンシャサの例は理想を示すものではないが、問題に気づくこと、そして考えることを誘発させてくれるものだ。あるいは表現することと言ってもいい。怒りを感じている人がいて、その怒りを、アートを通して表現しているのだった。そして、アートは人々を刺激し、変えていった。映画はその様子をしかととらえており、映画を見た人は「力強い映画だ」と口々に語っていた。

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