Toihaus-詩的素材のドラマトゥルギー
12月8日
Toihaus
Der Mod tropft 月が滴る
ザルツブルクにあるToihausは、乳幼児演劇に力を入れている劇場の一つで、留学中、絶対に行こうと思っていた。乳幼児演劇の国際ネットワークとして「スモール・サイズ」があるが、ここには各国を代表して一つの劇場およびカンパニーがパートナーとして参加している。HELIOS-Theaterがドイツのパートナー劇場だったように、Toihausはオーストリアのパートナー劇場である。
ここに来たいと思っていた理由はもう一つあり、それは日本人アーティストが各作品に音楽・パフォーマーとして参加していることだった。とりあえず一度訪れようと思って見に来たものの、今回はチキってあいさつすることができなかった(情けない)。劇場としても魅力的だし、HELIOS-Theaterとはまた異なったテイストなので、もう一度来たいと思っている。というか、留学の前半とか、もっと早く来ればよかったと、ちょっぴり後悔している。
▶Toihausのロビー
Toihausは街中の建物のなかにあって、一軒まるごと劇場というわけではない。それがまた街に馴染んでいる感があっいい。乳幼児演劇を扱う劇場ということで、ロビーには早めに行って、お客さんの様子を注意深く観察した。HELIOS-Theaterのものとはまた違った工夫があったので詳しく説明したい。
Toihausの大きな特徴であると思われるのは、荷物置場のところに脱いだ靴が並べてあることだ。この劇場のロビーは靴を脱ぐのである。ロビーはそれほど広くはなく、子どもたちが走りまわったりすることはできない。その代わりというか何というか、親子連れは床に座って寛ぐことができる。ロビーの奥の方にはテーブルとイスがあり、そこには年長の子どもや大人の観客が座っている。ほかには小さい子どもも座れる台のようなイスもあり、多少さまざまな年齢層の観客に対応した構造になっている。
受付はロビーの真ん中にあり、入口のすぐ傍には、上着をかけたり、荷物を置いたりする収納スペースがある。受付を構成している木箱には、床に近い位置に本棚が設置されていて、そこにはいくつか絵本が置かれている。「月」に関する絵本が数冊あったため、作品ごとに絵本の種類を若干いじっているのかもしれない。床の色はヘルブラウンであり、また間接照明によって照らされている。この点はおそらく意識して構成されているのだろう。床を明るくすることで、床こそがメインであることを演出しているのだと思う。
ここで、対象年齢の違いによるロビー構造の違いについて考えたい。Toihausのレパートリーを確認してみると、その多くは1才以上対象である。これがHELIOS-Theaterだと、レパートリーの多くが2才以上であり、自分の脚で立って自分の意志で歩き回ることができる子どもがメインの観客として想定されている。それゆえ、ロビーはある程度走りまわることができるほどのスペースが確保されている。対してToihausでは、1才以上の子どもが対象であり、ハイハイかよちよち歩きの子どもたちがメインの観客として想定されている。だからこそのロビーの狭さであり、靴を脱いで床座りなのだろう(建物が先か、対象年齢が先かは分からない)。
対象年齢に伴い、親の様子にも違いが見られたように思う。Toihausでは、多くの親子連れが床に座り子どもをあやしたり、ほかの親と会話したりしていた。HELIOS-Theaterのロビーでも親子同士のやりとりはあったと思うが、Toihausではより顕著だった。ロビーが狭いため、どうしても親同士の距離も近くなる。また、子どもたちの活動範囲も狭いので、あまり動かなくてよくなる。そうなると、隣の人と話すようになるのは必然だ。
大学のゼミでは、18世紀の劇場について扱い、観客にとって劇場がどういう場所だったのかを学んだ。劇場にくる観客は舞台だけを見に来るのではなく、ほかの観客も観に来る。そこでお互いの地位を確認したり、自分を演出したりしていた。そういう意味で観劇は大いに社会的な活動だったわけだ。これが乳幼児演劇だとどういう社会的な位置・役割になるのか考えるのはおもしろいと思う。
HELIOS-Theater同様、ロビーから上演がはじまる。ここで気づいたのだが、Toihausでは、演劇教育士による上演前の案内というものがない。HELIOS-Theaterでは、演劇教育士がグループごとに声をかけて説明をしつつ、作品に関して問いを喚起させていたが、これまた対象年齢の違いから来ていると思う。対象年齢が1才以上であれば、子どもに向けた説明という部分で効果が少ないだろうし、親と子はほぼ一対一、また親同士の交流も密であることから、劇場スタッフがいちいち説明する必要はないのかもしれない。この辺については、Toihaus設立当初の様子などを伺ってみたいものである。
▶『月が滴る』の上演
ロビーで導入として使われるのは、上演中に扱うもので、なおかつ上演のイメージを喚起させるもの、そして携帯可能な小さなものである。『月が滴る』では、漏斗の形をした鉄器が用いられ、漏斗の下からは光が射している。月の光が漏斗状の器から滴っているというわけである。演者は、その月の滴りを次々と子どもたちの目の前に落としていく。実際には光を床に照らしているだけだが、よく分からない器が劇的な効果を醸し出させ、光はただの光ではなく、不思議な光として知覚される。俳優がやってきた部屋(つまり舞台)の方からは音楽が流れ、向こうには何があるのだろうかとわくわくする。
部屋の四辺の半分が客席になっている。舞台を眺めつつ、ほかの観客の様子も見る。これから演劇を見るというより、不思議な儀式にみんなで参加しに来たかのようにも思える。アクティングエリアの隅には白と黒の混じった不思議な岩がある。月の一部だろうか。よくよく舞台上を見ると、白と黒が混じるという配色は統一されている。グラスに注がれた月の滴り以外にも、岩のオブジェや散らばった小石は白黒である。また、演者の衣装も白と黒で構成されている。この白と黒の配色は、新月から満月へと変遷する月のイメージから来ているのだろうか。あるいは色の識別があまり発達していない子どものための配慮だろうか。
岩のオブジェのすぐ近くにはチェロ弾きがいて、その反対には大量のグラスが置かれている。また、床には白と黒の小石が散らばっている。演者はチェロ弾き、グラス、ダンサーの3人である。グラスを扱っているのが、日本人の方であり、彼女はグラスの縁をなぞることで音を奏でるほか、傍らでレコードの機械を操作している。レコードからは透明感あるピアノの音が流れている。レコードをDJのようにいじることで、ところどころで音を奇妙に間延びさせる。それによって、月の静かなイメージと宇宙的なイメージとが奇妙に混じり合っている。
ダンサーが甕をもってくると、何か液体がピチョンと落ちる音がする。タイトルの「tropft 滴る」という動詞はオノマトペだ。言葉だけじゃなく、チェロやグラスの水を用いて、「tropft」の音が表現される。ダンサーは落ちてくる月の滴りを甕で受けとめる演技をする。その甕をグラスに注ぐと、白い液体が出てくる。グラスに入っていた水と混じって白濁した液になる。床が黒いため、白濁した水が神秘的に映える。
グラスに入った水をストローで吹くと、ブクブクという音と共に、カエルの卵のように泡が膨らんでいく。グラスの水は二人の演奏家によって次々と泡となって膨らみ、それをダンサーが子どもたちの前に並べ、吹きかける。月の滴りは摩訶不思議な液体で、生命を生み出す神秘的な力もあるかのようだ。
背後にスモークマシンが隠されており、そこから突如、白い煙が一つ吹く。白くぼんやりとした塊が、霧散しながらゆっくりと立ち上っていく。これまた月の滴りだろう。ダンサーはそれを手で捕まえようとするがうまくいかない。そこにあるのに捉えることができないのは、なんとも不思議で魅力的だ。ダンサーは空き瓶を手に取り、それで白い煙を捕まえる。手で捉えることはできなかったが、瓶を用いると捉えることができる。空き瓶を先ほどのグラスに注ぐようにすると、白い煙がゆっくりとグラスの上に注がれる。煙状の月が滴っているわけである。
ほかにも、散らばった白黒の砂利やロビーで用いられていた光の漏斗を用いたパフォーマンスがあった。うろ覚えだが、砂利を用いた「滴り」のパフォーマンスは、かき集めた砂利を一点に落とすことで円状に広がるさまや、砂利をグラスの間に並べることで滴りが雫になる様子を表現していた。
光の漏斗を用いたパフォーマンスでは、突如現れる月の光とそれを捉えようとするダンサーとで追いかけっこ/かくれんぼのような状態になり、その様子を見ていた子どもたちがよく反応していた。漏斗の下を手で隠すと光がなくなるので、ダンサーがいざ手で捉えた瞬間にはなくなっている。光は煙と似て、そこにあるが捉えることはできないものであるが、手をかざすと光るが手のひら上に映るという点で異なる。
乳幼児演劇では、パフォーマンスのあとに子どもたちが上演中に用いられた素材にふれることができるという観客参加がある。『月の滴り』では、瓶に詰めた白い煙で、ダンサーが子どもたちの前に瓶を持っていき、子どもたちが瓶のなかに手を入れるというものだった。おそるおそる手を入れる子もいれば、これが遊びだと分かっていて楽しそうに手を入れる子もいた。
▶『月が滴る』のドラマトゥルギー?
ドイツのHELIOS-Theaterでは、水や木といった具体的な素材を扱っている作品が多い。ここ数年は「あと」や「円」といった非物質的で動作的な素材を扱っているが、いずれにしても現実世界にある素材を一つ選び、そこからワークショップなどを通してアイデアを膨らませるといったやり方が特徴的だ。そのことが頭にあったので、Toihausの『月が滴る』というタイトルからは一体どんなパフォーマンスなのか想像がつかなかった。月は実際には滴らないからだ。
浅い観劇経験から思ったのは、HELIOS-Theaterが科学的・社会的に素材を扱っているのに対し、Toihausが詩的・空想的に素材を扱っているという図式である。もちろん、どの作品にも科学的・社会的・詩的・空想的な側面はあるので単純に類型化はできないが、素材を中心したドラマトゥルギーの方向性を広げる上でヒントになると思う。
『月が滴る』がおもしろいのは、「滴る」さまを表現するために、さまざまな素材が用いられている点だ。液体が用いられるのはもちろん、気体や固体、それから光が「滴り」を表現するための素材として用いられている。このとき、「滴り」のイメージを膨らませる原動力として、月の詩的・空想なイメージが大きく影響していると思う。例えば、科学的・社会的な思考で「滴り」を探究すれば、また違ったパフォーマンスが生まれるはずだ。
乳幼児演劇は素材を中心にドラマトゥルギーが展開するし、その展開の仕方は創作ごと変化する。これはHELIOS-Theaterの人から聞いた話だけど、国外でワークショップをすると国ごとで全く新しい作品が生まれるそうだ。例えば、水を中心にした作品をつくるためのワークショップを行ったとして、水が貴重な地域と水が豊富な地域とでは異なる作品が生まれる。乳幼児演劇ではそうした違いが非言語で現れるわけである。
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