自閉症の子どもとつくる映像プロジェクト『フレーム』を見て

2019年1月17日 国立オリンピック記念青少年総合センター 中練習室42
TYAインクルーシブアーツフェスティバル
『フレーム』
コンセプト:エリー・グリフィス
映像:ジェラルディン・ヒーニー

オリンピック・センターの中練習室のなかに、体験型インスタレーションとして白い部屋があり、それからその白い部屋を用いて制作した映像を見るための観客席が並べられていた。観客席も白い部屋同様、白い紙で包まれ、カラフルなシールやテープで意匠が凝らされている。インスタレーションである白い部屋は今日の午前に近くの保育園の子どもたちが行ったものであり、観客席はその日オリンピック・センターに訪れた観客が行ったものだ。

壁も机も椅子もすべて白い紙に包まれた白い部屋。この部屋に入ってきた人は誰でもアーティストであり、この部屋で行うことはすべてアートである。白い部屋は真っ白なカンバスと見立てられ、傍らにはカラフルなシールやテープが素材として置かれている。白い部屋にやってきた人は、それらの素材をもとに好きなように遊ぶ。壁にシールをひたすら貼る人もいれば、テープを壁から壁に貼って空間を3次元に構成する人もいるだろう。あるいは白い紙をはがして遊ぶ人もいるかもしれない。

上映された映像では白い部屋のなかで自由にふるまう自閉症の子どもたちの姿が映し出されている。どう遊ぶかはその子しだい。テープの使い方だけでもさまざまな使い方がある。テープの本体を壁につける子もいれば、壁に括り付けたテープを引っ張って遊ぶ子、自分の身体に巻き付けて遊ぶ子もいる。そこに正解はない。映像に映った子は、私たちが思いも寄らない方法で白い部屋で遊んで見せる。白い部屋がカンバスであるなら、彼らのパフォーマンスは絵具である。アーティストの二人が用意したのは、自閉症の子の振る舞いがアートとして浮かび上がるような枠組み(フレーム)である。

映像を見た後、この映像がどのようにできたのかが話された。アーティストの二人はエジンバラにある学校で、自閉症の子どもと映像制作を行った。学校を訪れたとき、自閉症の子が行っていることは、二人にはアートのように見えた。しかし、先生や保護者などの大人からしたら、それらの行為は反社会的なものにしか映らない。大人の考えるアートとは、額縁(フレーム)に入った立派なものだ。そこでアーティスト二人が考えたのは、彼らがアートだと思う自閉症の子の振る舞いを、アートとして見せるためのフレームを作ればいいのではないかということだった。そうして白い部屋のプロジェクトが行われ、『フレーム』という映像作品が作られた。

映像を通して自閉症の子どもたちの姿を示すことは優れた点と微妙な点がある。優れた点は、自閉症の子の生き生きとした姿を示すことができるということ。演劇のように人前で何かを演じるということはかなり難しい。仮にできたとしも、映像で示すことができる姿とは質の異なるものだろう。映像であるがゆえに、撮影しながら、その子に合わせて遊びを補助しながら発展させることができる。ライブの演劇ではなかなか難しいだろう。微妙な点とは、子どもの権利に関わる問題である。自閉症の子どもが出演する映像は少ない。なぜなら許可を取ることが難しいからだ。本来、映像作品を作る場合、映像に映っている人に許可を求める必要がある。しかし、自閉症の子どもに許可を求めたところで、映像に映るという意味を理解しているとは言い難い。保護者の許可は取るにしても、倫理的に微妙なところだ。だから映像が少ないのである。けれども、自閉症の子どもたちの生き生きとした姿を示すことによって、偏見や差別に対抗できるなどさまざまな可能性がある。この作品はこうした微妙なバランスのなかで行われているものだと言う。

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