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ダークペダゴジーとワークショップ

今週の教育の歴史の授業で「ダークペダゴジー(Schwarze Pädagogik)」の話があったので、ついでに思ったことをつらつらと書きます。

ダークペダゴジーという概念は、1977年にKatharina Rutschkyというドイツ人によって提起されました。体罰や脅迫、人格否定などで指導しようとする教育方法を指します。

授業で扱っていたのは啓蒙主義の時代。ルソーによって『エミール』が書かれ、子どもの自主性を重んじた教育論がある一方で、子どもを社会に適応するよう強制すべきとする教育論もありました。この時代のダークペダゴジーの例として、オナニーを退廃的な行為とみなして禁止していたという話が印象的でした。

ダークペダゴジーという言葉自体は、去年、東京学芸大での研究室で聞いた覚えがあります。はっきりと覚えていませんが、ワークショップについて話しているときだったと思います。

今やいろんなところでワークショップという言葉が使われ、ワークショップを万能視する人も多いです。けれど、一歩間違えれば、人を殺してしまうこともあります。そんな話でした。その際、友人が『心をあやつる男たち』という本について話していました。日本の自己啓発セミナーのブームについて書いてある本です。友人はその本をワークショップの負の歴史について書いた本として捉えていました。

演劇教育を信じている人は、演劇によって救われた、あるいは演劇によって自分が変わったという経験があります。何かによって自分が大きく変化するという体験は魅力的なものですが、危険なものでもあります。

ちょうどそのころ、ゼミでベイトソンを読んでいたので、そうした大きな変化を「学習3」という概念で捉えて、演劇ワークショップで学習3を起こせるのではないかという議論がありました。しかし、そのとき先生から「学習3が起こるということは良いことなんですか?」という問いが投げかけられました。そして、その問いに対して、誰も答えることはできませんでした。なぜなら、学習3という概念自体には善悪の価値判断が含まれていないからです。

仮に、自己の大きな変化が学習3だとしましょう。しかし、そこには新興宗教にハマって性格が変わったり、自己啓発セミナーで人格が変わったりすることも含まれます。どんな変化が良い変化で、どんな変化が悪い変化となるのでしょうか。それから、そうした変化をワークショップでコントロールできるのでしょうか。仮にコントロールできたとして、果たしてそれは良いことなんでしょうか。

東京学芸大での学んだことの一つに、教育のもつ危険性があります。ワークショップにしろ教育にしろ、負の歴史があったということ、気をつけなければ同じ過ちを繰り返す可能性があるということは、すぐ使える小手先のテクニックをたくさん知ってることよりも、何倍、何百倍も大切な知だと思います。

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