劇場に行って観劇するということ

久しぶりに小劇場に行って観劇した。オンラインに慣れたからすっかり忘れていたのだが、演劇を見るためには劇場に行くという手間暇がかかる。場所にもよるが、電車を乗り継いで、駅を降りてからしばらく歩くことになる。

●劇場までの道程

アトリエ春風舎は前に行ったことはある。けれど、それは2年ほど昔のことなので、うまく場所を見つけられるか不安だった。そこで、余裕をもって家を出ることにした。小竹向原駅を降りると、「ああ、こんな風景だったな」と思い出した。観劇経験には、その前後に劇場までの道程の風景を歩く経験がセットになっている。その過程で、前に来たときのことを思い出す。前に来たときは、何を見たか、誰がいたか、そういう場所の記憶がセットになっている。

●観客席に座る

劇場に着いて、席に座る。これまた独特の経験である。これから演劇を見るのだという期待が高まる。どんな人がこの作品を見に来ているのだろうかと気になりつつも、あんまりじろじろ見ては悪いなと思って、そそくさと席につく。席についたらついたで、この席でよかったのだろうかと不安になる。この日は一番前の席に座った。大学の授業の要領で、前の席は遠慮する人が多いから先に座ってしまおうという感情があった。けれど、座ってみて気が付いたのは、最前列に座っているのは、僕以外がすべて女性だということで、そこから自分の座高にせいで後ろの人の視界の邪魔になってしまうのではないかと気になった。

●気配という視線

このとき、自分が視覚情報ではなく全身の感覚でその空間の雰囲気を感知しようとしていることに気が付いた。自分の視覚は目の前の舞台しか見ていないが、後ろのざわめきや空間全体を覆う緊張感から、今この会場がどういう状態があるのかを把握していた。鞄を置いて、その場の席において一番リラックスできる姿勢を模索するが、そのときの一挙手一投足に緊張感がある。自分が全身でこの空間を察知しているのと同じように、隣の人や後ろの人があらゆる気配を察知しているという“視線”を想定するからだろう。

●上演前のそわそわ

席について、上演がはじまる前の静かな時間。静かといっても、誰かの選曲であろう客入れの曲が流れていて、そこら辺は日本の小劇場っぽいなと思う。日本の小劇場らしいといえば、席にいくつかのチラシが置かれているのも懐かしい。コロナ前は大量のチラシに辟易していたのだけど、今はどんなチラシが入っているのかとパラパラと見ていくのが楽しい。隣の人は本を読んでいるが、それはおそらく通い慣れていて、もうすでに知った情報ばかりなのかもしれない。そんな推理をする。

●観客を見る/に見られる観客

観客は舞台を見るだけでなく、ほかの観客を見ている。これは観客論でよく語られることだが、そのことをまざまざと実感させられる。「見る―見られる」の関係は、観客―俳優の関係に留まらず、観客-観客においても絶えず起こっている。これは上演前後の観客席が明るい状態に限らない。上演中、何かのシーンで笑い声が上がったり、肩をふるわせている気配があったりする。笑い声のなかには、あからさまな笑い声もあり、そこからその声の主の観客としての戦略を想像してしまう。彼が笑い声を記号的に発しているのは、舞台上の俳優を元気づけようとしているのか、自分はこの作品を分かっていることを示すことでほかの観客より優位に立とうとしているのか、ただ単にそういう笑い方の人なのか。

●演劇独自のメディア性

上演中の自分の視線も気になる。オンラインだと気にならないが、目の前に生身の身体があり、それをまざまざと見るということはかなり特殊な状況である。上演がはじまってしばらくは、眼前の身体を遮られることなく見続けることが許されている状況に、覗き趣味的な背徳感を感じてしまった。なんと暴力的なことか! でも、しばらくすると慣れて全く気にならなくなった。今度は、自分の視線がどこに向かっているのかが気になった。なぜ自分はこのときにここに視線を向かわせたのか分からないときもあれば、このシーンはここを見るのが正解だろうと思うときもあった。舞台上の複数個所で異なる出来事が起こっているとき、その同時多発性を楽しむことができるのは演劇のメディア性ならではだろう。二つの出来事の関係に意味を見出すこともできれば、演技の構成上の都合として見ることもできる。

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