デカルトの心-身問題

哲学者のデカルトは、人間の精神(心)と身体(体)は二つのまったく異なる主体であり、両者は明確に区別して考えるべきだと説いている。生きている主体である身体と、考える主体である精神とは、まったく別のものだというわけである。これがいわゆる「デカルト的心-身2元論」と呼ばれる考え方で、矛盾した考え方だと昔から多くの人たちの批判にさらされてきた。だが、ぼくはこの2元論は簡単に否定してしまうことができない問題だと思うのである。

デカルトによれば、身体は物質でできているモノであり、骨や筋肉や皮膚や血液やといったいろいろな部分が寄り集まって組み立てられているものであり、大きさや形、色、重さなどがあるモノである。だから身体はそれら部分に分割できるモノだという。

それに対して、精神はまったく物質ではなく、大きさも色や形もない。しかも精神はそれだけでひとつの全体をなしており、部分に分割することができないものなのである。なぜなら、半分の精神などということは考えることができないし、精神はどれだけの大きさか重さかといったことも、想像することができないものだからだ。

そして物質である身体と、まったく物質でない精神とが、ひとつに合体している。精神は身体の隅々にまで浸透して存在しており、両者は切り離せない状態にある。精神にとって脳が重要な器官であることに疑いはないが、精神は脳とか神経とかに局在しているものではなく、脳だけでなく身体の全体と関係しているものだというわけである(心身の合一)。アメリカの文明思想家であるルイス・マンフォードも、どれほど進歩した医学で脳を徹底的に詳細に調べてみても、そこに精神を見つけることはできないだろうといっている。

前述のように、このようなデカルトの心-身2元論は矛盾した考え方だと批判されてきた。実際われわれがある人を見る場合、その人の身体と精神とを区別して見ているわけではない。人間の心と身は同じもの、ひとつの全体ではないのか。

だがデカルトの心身2元論には、簡単に否定することができないものがある。確かに人間の身体と精神は同じもの、ひとつのものなのに、どれほど科学が進歩したとしても、身体と精神の間には越えることのできない理解のクレバス(間隙)が存在し続けると、比較行動学のコンラート・ローレンツは主張している。

ローレンツによれば、心-身問題のように、同じひとつのものなのに2重の存在様式を示すものはほかにもある。たとえば「光」がそうである。光はあるときには物質として現れてくるが、ほかの時には波動(波)として現れてくる。だが物質であると同時に波としても存在するということは、物理的には不可能なはずなのである。光は、デカルトの心-身2元論と同じく、矛盾した存在である。同様に、「物質とエネルギー」も、同一のものなのに2重の現れを示す、矛盾した存在である。こうしたことから理論物理学者の渡辺慧氏は、心-身問題のような現象は、心理学にも量子力学と同じような非分配則的論理が成り立つ証拠ではないかと指摘している。
これらの矛盾が将来の科学によって解明されるかどうかは分からないが、それにもかかわらず探求が続けられていることは素晴らしい。


追記:参考文献
・デカルト「世界の名著22デカルト」野田又夫ほか訳、中央公論社
・アラン「アラン著作集第6巻 イデー」渡辺秀訳、白水社
・K・ローレンツ「自然界と人間の運命 PARTⅡ:生存への諸問題をめぐって」谷口茂訳、思索社
・L・マンフォード「機械の神話」樋口清訳、河出書房新社


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