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はじめまして webデザイナータグチ誕生までのあれこれ【vol.3 完結編】

こんにちは。WEBデザイナーのタグチです。

更新がおくれてすいません!今回は自己紹介vol.3「完結編」です。

前回までのあらすじ。
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・ブラックな不動産会社で営業職で働いていた。
・休みの日に店長に呼び出され、廃品処理を頼まれた。
・それまでのストレスもあいまってか、一時的なストレス障害に
・正気に戻った時には見知らぬ土地で運転をしていた
・その時に会社から大量の電話とメールが来ていた。
・そのメールを見て、会社をやめる決心がつく。その内容とは
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■正気に戻った僕に待っていたメール

このメールを見て、当時の会社を辞める決心がつきました。
最初の数通ほどは「出社してないけどどうした?」とか「事故ってる??」とか僕の安否確認のような内容でしたが、それ以降のメールときたら、
「おい、連絡しろ」
「お前、仮病か?」
「あと5分で連絡しなかったらクビだから」
「おまえみたいなのがいるからみんなに迷惑がかかる、とりあえず連絡しろ」
「どうせ仕事が嫌になって逃げてんだろ」
「おまえ、どうなるかわかってる?」
「まじで忍耐ないわ。最近入るやつおまえみたいなのばっか」

こんな感じで誹謗中傷、脅し、などなど完全に心配する様子は消え、仕事をサボってるの一点張り。

その時僕は悲しい気持ちとやるせない気持ちの中で1つ確信しました。
「なるほど。俺のすぐ上の先輩が今年37歳・・・中堅がいないのってこういう理由だったんだな。こんな状況なら誰でも辞めるわ。」

何よりも自分の体がおかしい状態になっているこの状況から早く抜け出さないと、危ない。
本気でそう思い、すぐさま会社に電話しました。

先輩「(怒号)おまえ、やっと連絡してきたな。今何してる。とりあえず会社に今すぐ来い!」
タグチ「(ああ、やっぱり心配はしないんだな・・・)わかりました。今から会社に行きます。そして会社を辞めます。理由は着いたら話します。」

そこから会社に行き、専務を交え事情を全て話しました。
全く持って信じてもらえませんでしたし、辞めることも認めてくれませんでした。(久々に3年ももった新人だったからかもしれません。僕がいる3年ちょっとの間で新しく入った新人は4名辞めています。)
最終的には、今もっている契約とその報酬を全て受け取らないことを条件(その月は売り上げが良かったので来月まで続けていれば約140万円くらい)に雇用契約を解除してもらいました。

やっと。やっと開放されました。

全てから開放されてからこの3年を振り返りましたが、やっぱり辛い思い出しか出てきませんでした。

■何もしないまま過ぎた1ヶ月

無職になった僕は約1ヶ月、何もしないで1日14時間くらい寝るような生活で、寝ても寝ても睡魔が襲ってくる、体がだるい、何もやる気がおきない、ご飯もろくに食べない、そんな状態でした。

1ヶ月経ったころ、ふと思います。

「これから僕は何をして生きていこう」

「何をして生きていたら満たされるんだろう」




「もう一度、デザインがんばってみようかな」

僕は一度学生時代に周りとの差を感じてデザインで挫折をしています。
希望の就職先に行けなかったこともあり、かなり自信もなくしていました。

もうこれしかない!とか、デザインで生きてやる!とかそんな大それた意思があったわけではなかったですが、
ふと冷静に、素直に自分と向き合った時に最初にやりたいと思ったのでデザインだったんです。

■デザイン・・・ってなにする??

今から建築事務所やデザイン事務所に入るとなると中々厳しいな。
他になにかデザインができる仕事。。。なんだ。。。好きなこととデザイン、ネットか!!WEBデザイナーか!!これだ!!

そんなこんなで最初に始めたのはPhotoshopとIlustratorの復習、
そして調べながらwindowsのメモ帳にhtmlタグを書くということ。
これをひたすら毎日やっていました。

毎日がすごく楽しい。。。生きてて良かった。。。そう思える毎日でした。

■制作会社入社へ向けて就職活動

その当時、京都、大阪の制作会社では基本的に未経験者の募集は無く(今でも??)、経験2,3年以上ばかりで中々就職先が見つからず(もちろん実力不足で)途方にくれていたところ、保険で受けていた事業会社から声がかかりました。
連絡が来たタイミング的に、希望の人が採用できなくて返事を保留にしていた僕に連絡をしてきた感じでした。
とにかく何かスタートを切らなければ始まらないと思い、そこに入社を決めました。

給料も手取り16万くらいでコンビニのフランチャイズを大阪で6店舗、飲食店を5店舗運営しており、種子島で見つけた野菜を楽天で売る事業を始めて1年、そんな会社でした。

そこのWEB担当はというと2つ上の女性の先輩が1人。

タグチ「今日からお世話になります。よろしくお願いします。」

先輩「あ、よろしくねー。やっと後任入ってきたわー」

タ「はい。宜しくお願いします。・・・ん??後任??」

先「私、ここ来週までだから、色々覚えてねw」

翌週から店舗ページデザイン、コーディング、広告管理、売り上げ管理、顧客対応、在庫調整、その他もろもろを一人でやってました。

ECサイトで必要な要素を色々体験できて、今思えば良い環境だったのかなと思います。毎日終電でしたけど。

最終的に1年経ったある日、販売していた野菜が仕入れられなくなり社長から一言

「次の売り物見つかるまで飲食店手伝っといて」

そこから1カ月、運営していたメキシコ料理屋でホールをやった後、退社しました。

■ここからがスタート

未経験からちょうど1年、これでやっと職歴に「webデザイナー1年」って書ける。

就職活動も多少しやすくなるはずと思い、就活を再スタートします。

実際いくつか内定をもらいましたが、年齢もそこそこ上がってきたので給与面や社内の環境等、長く働けそうかちゃんと見るようになり決めるに決めれない、そんな状態で1カ月が過ぎました。

その1カ月間であることが起こります。

当時全盛期だったmixiでサイト制作の依頼案件が何件か舞い込んで来ました。

就職活動の合間のバイト代わりにと思って初めたその制作案件をこなしてるうちに、初月は12万、翌月は18万、翌々月は25万と報酬を得ていったんです。

「あれ?これもしかして就職しなくてもWEBデザイナーで食っていけるんじゃね??(相当甘い)」

当時はそんな甘い考えの中、浮き沈みがありながらも結局3年ほどフリーランスのWEBデザイナーとして活動することになります。(最終的に今日に至るまで制作会社には就職できませんでした)

仕事もぼちぼち、収入もぼちぼち、友達と遊ぶ自由な時間もぼちぼち、そんな暮らしの中、京都の田舎である出会いが起こります。

■暗黒時代2の始まり

当時起業ブームというか、20代で起業する風潮が出掛けていたさなか、ある男性からmixiで連絡をもらいました。

「今企業する仲間を探してまして、WEBデザインをできる人材を探しているのですがよかったらお話しませんか?」

「うわーうさんくせー」と思いながらもぼちぼちの生活から何か変わりたいと思っていた自分にとってはタイミングが良すぎたのもあり、会うことになりました。

その男性Kくんは僕の1つ下で、去年までNTTの子会社で東京勤務だったそうで特に何かやりたいこととか技術が有るわけではないが、とりあえず起業したいみたいな感じでした。

同じ会社にいたTさん(僕の3つ上くらいの男性)も紹介され、あと数名集めた仲間がいるとのことで、このメンバーで起業したいという話を持ちかけられました。

当初の僕の返答は「一緒に起業するかどうかはまだ返答できないけど外注案件としてなら請けるよ」という感じでつかず離れずの距離感のまま4ヶ月ほど経ちましたが、結局外注案件は来ません。

そりゃそうです。だって何で起業するか決まってない連中でしたから。

ただ月2回くらい集まってミーティングはしてるようで、一度興味本位でそのミーティングに参加することになりました。

そこで聞いたミーティングの内容がほんと凄まじくて。。。

もうね、びっくりするくらい中身がないんですよ。言ってることも地に足付かず、夢のようなことばかり(夢を語るのは悪い事じゃないですよ。行動を何も起こしてないだけ)。

これは話進まんなーと思い、おもわず口を挟んじゃいました。

「とにかく先にアクション起こして実績作らないの??無償でネットを活用出来てない会社のコンサルやるとか。一応、俺デザインはできるからその部分は手伝えるし」

この一言が色々とやばいストーリーの始まりだったのかもしれません。

ここから9か月ほど、何件か地元の会社さんの上手くいってないネットショップをサポートしたり、フラワーショップのコンサルをしたり、実績がすこしづつ貯まっていきました。
なんとなくこの頃から、この人たちと一緒に何かやっていくのも良いな。。。そんな風に思うようになっていっていました。

そんな矢先、このグループの代表のKくんがある人物と繋がります。

その人物はHさんといい、年齢は当時40代後半、当時の僕たちからするとかなり目上の方です

結構名の知れた会社の出身で、企業のコンサルや今で言うSES(人材派遣)みたいなことをしながら会社を回している方でした。

その人曰く、「君たちみたいな若くて活気のある人たちと一緒に会社をやりたいと思っている。ぜひ力を貸してほしい」という話を持ちかけられ、起業思考のKくんはあっさりその話に乗っかります。

僕は元々目上の男性が少し苦手な節があり、不安を抱えながらも「ここまで来たらKに乗っかるか」という気持ちで承諾しました。(だいぶ後で聞いた話ですがこの時Tさんも不安しかないからできればHさんとの事業は辞めた方がいいと思ったが、Kくんがやるというなら仕方ない、という感じだったようです。)

既に今からやりたいビジネスモデルがHさんにはあり、それを聞いた上でKくん、Tさん、僕含め納得のいく事業内容(高齢者を対象とした見守り、お手伝いのような事業)でした。、

実際にこちら3名、とHさんの知人であるベテラン営業のOさんの5人で事業をスタートさせました。

この頃はまだ法人を立てず、最初は一人当たり80~100万ほど持ち出しでスタートしました。地元の方に徐々にサービスの認知がされ利用者も増えてきた頃、Hさんがこう提案します。

「そろそろ持ち出し資金も無くなってしまうし、次のフェーズに移りたいので銀行から借り入れをしようと思う。そのために法人化する。」

僕たち3人は法人化はもちろん銀行から融資を受けた経験もなかったので、なんとなく事業がうまくいっているという手応えだけを頼りに全てをHさんに任せました。

そして銀行の借入1200万円が決定する目前でHが急にこんなことを言い出します。

「K、今のところ君だけはあまり事業の役に立てていない。これから一緒にやっていくのに不安があるから営業ノルマを課させてほしい」

たしかにここ何カ月間を思い出してもKくんの仕事ぶりはそう思えるような内容でした。

「とはいえ、ここまで一緒にやってきたのもあるのでさすがにここでKくんを切ることはないだろう、少し気合いを入れ直すための儀式みたいなものだろう」

その時はそう思ってましたし、実際Hさんもそのつもりだったのかもしれません。

しかし、予想に反して悲劇が起こります。

ノルマの期日を目前にしてKが行方をくらまし、数日後連絡が取れて一言

「ごめん、俺もうやめたい」

自分の過去の似た状況もフラッシュバックし、一人成果が出せないKくんも苦しかったんだなと感じました。

僕とTさんは「わかった」とだけ伝えて、翌日正式にHさんの前でKくんがこの事業から降りることを伝えました。(そこから今日までK君とは一度も会ってませんし、今では連絡も取れません。)

Kくんが去って、Kくんの元に集まって動き出した僕とTさんだけがHさんとの事業を進めるという展開になりました。

ノリノリで参画したKくんが去り、元々不安を抱えていた僕とTさん2人だけが残る。ここからさらに不安と恐怖の毎日が始まります。

銀行からの融資1200万円が決定し、法人化も行い、事業は次のフェーズへ向かいます。

その頃からだんだんとHさんの僕たちへの対応が厳しくなっていきました。

事業が思うように進まない苛立ちを怒号混じりの説教に変えて、まだまだ未熟だった僕とTさんに毎日のように浴びせました。

その頃はもちろん、営業や地域の方との交流がメインの仕事となり、デザインなんて1ミリもやっていません。

「あれ?俺なんでこんなことしてるんだっけ?」

一緒にやろうと言っていたKくんもいない。好きでもない営業を毎日怒号を浴びせられながら繰り返している。

「この感覚、、、なんだろう、やばい。。。」

昔の不動産営業時代がフラッシュバックし、気がついた時は病院のベッドの上、、、道でうずくまって倒れていたところ、近くの人が救急車を呼んでくれたみたいでした。

「また同じこと繰り返し。。。なにやってんだろ。弱いな。。。」

そう思いながらも、前の鬱のような状態にはなるまいと「ちゃんと自分の人生は自分で決めたことで生きて行こう。こうなったのも自分の責任、ここから変わるのも自分次第」と思い、翌日にはHさん、Oさん、Tさんの前で「Hさんのやり方は僕には合わない。自分の人生なので自分がしたい仕事で生きていきます」と、その事業から降りることを伝えました。

事業が始まってから大した給料ももらえず、最初の持ち出しも含めほぼほぼ貯金が無いような状態の中、Hさんにこう言われます。

「辞めてもいいが4人で納得して借りたお金は負担してもらう」

これも自分で決めた退路。そこにも責任はあります。

「わかりました。でもこの期間で手持ちも無くなったので毎月口座に振り込みます。」

そう言って僕はこの事業から降りました。

課せられた負担は1200万円の4等分の300万円。

これを月15万円くらいのペースで返済しました。

その返済期間中は昔付き合いのあった営業さんと連絡を取り、個人で仕事を請けたりしていましたが、この頃は業界全体的にサイト制作の単価が下降する一方だったので、昼間は引っ越し屋などで働き返済に当てていました。

返済も残り60万ほどになったある日、またあの感情が出てきます。

「やっぱり、ちゃんとデザインしたいな。」

請負の仕事もかなり減り、自分のデザインスキルにも自信が無くなりかけていた頃なので、「今の自分のスキルで雇ってくれるところなんてあるのかな?ダメ元で試してみるか」そう思い、Find jobに掲載されていたある大阪の会社に面接に行くことになりました。

■運命の分かれ道、地元を離れる選択肢

面接に行った会社はデザイナーを募集してはいたものの、どちらかというとシステム案件が多い会社でした。

前日に寝ずに作ったポートフォリオを手に、面接で緊張しながらも社長がかなり良い人で、過去のやっていた暗黒時代の事業の話なども聞いてくれてその場で採用していただきました。

社長「これくらい一人で作れるなら問題ない。ちゃんと戦力になれる。」

「採用は決定で選択肢が2つあるからどっちか選んでほしい。1つは大阪に残ったままwebデザイナーとして自社システムのパッケージのwebデザインを行う。
もう1つはwebデザイナーとして業務委託先に常駐する形で常駐先のwebデザインを行う。ただしこれは東京でやることになる。」

「(10代の頃から東京で働くことに少し夢を持っていたこともあり)東京に行きたいです。今勤務してる引越屋に話しできたらすぐにでも上京します。」

そう社長に言った翌週には東京に来ていました。

まだ家も決まっていない状況で、会社が1カ月間マンスリーマンションを契約してくれて、その間に常駐先(今の会社)の面談と住むところを探しました。

そしてなんやかんやありまして、その2年後に常駐先に籍を移すことになり(元の社長も応援してくれて円満退社)、今に至ります。

■さて僕はどこでWEBデザイナーになれたのか?

この自己紹介noteのテーマである「僕がWEBデザイナーになるまで」ですが、いったい僕はどこでWEBデザイナーになれたんでしょうか??

不動産屋をやめてWEBデザイナーになると決めた日でしょうか?

最初にhtmlをメモ帳に書いた日でしょうか?

楽天でページをECショップの店長兼デザインをやっていた時でしょうか?

mixiで初めて案件を取った時でしょうか?

いくつかそう思えるポイントはありますが、自分の中で一番そう思えるのは東京に来るきっかけとなった社長の「大丈夫、これなら戦力になる」と言われた所からだと思います。

ちゃんとこの仕事で人に認めてもらえた。その時が一番そう思えたからです。

なので時系列で書くと長々とWEBデザイン業をやってますが、自分の中ではちゃんとWEBデザイナーになれた日からは今で約4年半になります。

色んな回り道と挫折がありながら、なんとかWEBデザイナーになれました。

この仕事に就いてからは、ストレスで倒れるようなことも記憶が無くなるようなことももちろん無く、仕事が楽しくてしょうがないです。

こんなすごーく回り道をしてる僕ですが今後ともWEBデザイナー タグチをよろしくお願い致します。

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ここでこの自己紹介シリーズは完結です。

noteを始めたばかりなので、次回から何書こうか全然決まってません。

一応毎週投稿を目標に必死にネタ探します!

質問箱とかやってるので暗黒時代の話を掘り下げたい方はお気軽に!

長い自己紹介にお付き合いいただきありがとうございました!

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