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【小ネタ】レジーム・チェンジ=金融政策の転換?

今や大恐慌研究の古典と化している、ピーター・テミン『大恐慌の研究』を10年ぶりに読み返していた。

テミンの『大恐慌の教訓』をネットで検索して、以下の記事が引っかかったのだが…..

そしてその常套言語は、中野氏もそうですが、なんら実証的でも歴史データをフォローしてもいません。彼の批判もテミンがこんなことを言ってるという彼の本のたかだか一節を(後で述べますが誤解を生むような形で)引用したものです。テミンが怒ります。なぜならテミンにとって金融政策の転換にレジーム・チェンジの核を求めることこそが『大恐慌の教訓』の核心メッセージであります。テミンは『大恐慌の教訓』以前の立場から「転換」したというのが本人含めてまわりの評価です。以前のテミンは、中野氏と同様に金融政策は不十分で、財政政策や政治の転換の方が大きいとした立場から「転換」したからです。

アメリカにおいて、金本位制離脱による平価切下げを大恐慌からの脱出手段の一つとしてテミンが挙げているのは確かだが、テミンの「レジーム転換」(本書では、レジームを"Policy Regimes"としている)は、金融政策の転換という狭い範囲ではなく、戦前の正統的財政政策から、テミンが独自に定義するある種の「社会主義」への政策体制転換という、より広範囲な政策転換を指しているというのが正しい。

ニューディール政権とヒトラー政権

大恐慌からの回復については、第三章で詳細に記述されている。この章では、主にニューディール政権とヒトラー政権とのマクロ経済政策転換が比較・検討されている。最初の方で、テミンは以下のように述べている。

ルーズベルト政権下の合衆国と、フランツ・フォン・パーペン政権、並びにその後のヒトラー政権下のドイツにおけるマクロ経済政策の転換は、1933年に経済的潮流を変えたのである。正統的財政政策に取って代わったのは拡大政策であり、かなり社会主義的な政策であったと私は論じたい。(P.119)

テミンによれば、ニューディール政権下での政策転換は、平価切下げとそれに伴う銀行休業日(バンク・ホリデー)であり(P.127~P.128)、また「ルーズベルト政権の要求を何でも受け入れた」ユージン・ブラックがFRB議長に就いたことであった。(P.130) 一方、ドイツでは「合衆国の平価切下げのような明確な変化の兆候は存在せず」(P.135)、ナチスは「平価切下げよりも為替管理を選択」し、(P.154)「企業の公的所有よりも経済活動に対する中央集権的統制を強調した」(P.154)と書かれている。したがって、テミンは、大恐慌の回復において、両国とも「金融政策の転換」をレジーム・チェンジの核であるとは強調していない。また、ドイツは1931年7月にすでに金本位制を離脱しているが、本書では、「マクロ経済政策の転換」を1933年としており、この点から見ても「金融政策の転換」を第一であるとテミンは考えていないのは自明であろう。

(パーペン、シュライヒャー政権による)回復が持続しえたのだと信じる根拠はほとんどない。政治の不安定性は経済の不安定性を反映していた。政策体制は変化しつつあったもの、合衆国の平価切下げのような明確な変化の兆候は存在しなかったのである。パーペンの一時的な景気拡大が、継続されるという保証はまったくなかった。結局、1932年の回復ははっきりとしたものでもなければ、世界的規模のものでもなかった。(P.135)

世界経済からドイツを切り離し彼らが望む専制政治を推進するために、そしてまた経済を直接管理する別の手段を開発するために、ナチスは平価切下げよりも為替管理を選択であった。(P.154)

「社会主義」へのレジーム転換

テミンは、「社会主義」を以下のように独自に定義している。その特徴とは以下のようなものだ。(P.147)

  1. 経済の「要衝をなす」高台、とくに公益事業と銀行業の公的所有あるいは「規制」

  2. . 賃金決定への政府の強い関与

  3. 「社会の所有する資本と自然資源が生み出す所得における個人の貢献分と等しい社会的分配分」を、あらゆる人に供与する福祉国家

この「社会主義」体制(本書だと新しい政策体制)への転換こそレジーム転換であるとはっきりと述べられている。

1930年代前半に、古典的自由主義に反対した最も有力な思想的伝統は社会主義であった。イデオロギー的闘争が行われたのは、主として自由市場の支持者とさまざまな装いの社会主義者の間においてであった。金本位制によって規定されている政府財政のルールでは、事実上それが民間経済の自然な反応を速めるものでなければ、政府介入は悪だとされていた。それに代わる考え方は、政府は労働者を助ける一つの道具になりうるというものであった。言い換えると、経済に政府が参加するのは善だということである。(Gourevitch, 1986)。(P.144)

私は、単なるノイズではない新しい政策体制が存在したと主張したい(Garraty, 1986, ch.8) その政策体制が経済回復のための消費と投資を刺激した時、経済機構の中の人々にもその存在は明らかであった。新しい政策体制は、思想や現実の出来事が政策と衝突するにつれて絶えず変化していたが、ドイツの外部においてその本質的形態を表していた。ドイツではナチスのイデオロギーと戦争準備が、新しい政策体制に覆いかぶさっていたからである。そこには矛盾があったが、対立する要素は、フーバーとパーペンが別個にとった景気拡大への動きのように、基本的政策体制からの逸脱とみなされたのである。矛盾も含めてその長所も短所も、新しい政策体制は根本的に社会主義的なものであった。(P.145)

新しい政策体制(社会主義)について、テミンがとくに強調しているのは、「賃金決定への政府の強い関与」だ。アメリカでは、ニューディール政権は、NRA(全国復興局)、ワーグナー法、単一の全国共通賃金を支払うプログラムにより実質賃金が上昇させ、ドイツでは、ナチス政権は、労働組合を弾圧して代わりに賃金交渉をナチスの機関である労働評議会に委託したこと、また強制的な労働奉仕の導入により、実質賃金の上昇が抑えられた。(P.150~P.155)。このことにより、ナチス・ドイツでは、失業率を劇的に改善できたが、低賃金により技術革新は停滞した。逆にニューディール政権下のアメリカでは、高賃金により失業率改善は頭打ちになったが、高賃金のお陰で技術革新が起こったと述べられている。

大恐慌の教訓

大恐慌での新しい政策体制は、戦後経済体制にも影響を与えた。西ヨーロッパと合衆国の戦後経済は、正統的財政と社会主義双方の要素を安定と成長を強調するような形で包含した混合経済となり(P.167)、ドイツにおいては、ナチスの反省から最初のうちは反トラスト法が制定されたが、1950年代には政府と産業界の協力体制に戻っていった(P.168)。

第3章の終わりにて、大恐慌の教訓について以下のようにまとめられている。

大恐慌から引き出される教訓はいつものように多様なものである。理論的教訓は、経済と政治の相互作用から得られる。大恐慌からの回復の開始は、経済的状況に対して期待が大きな役割を果たすこと、そしてこれらの期待の形成に政府が重要な役割を演じることを強く示している。多くの現代のマクロ経済学の基礎をなしている合理的期待は、経済の一意的均衡を示してはいない(Diamond and Fudenberg, 1989) 期待は合理的であるという強い仮定を置いてさえ、期待が変化する可能性と、変化した期待が経済的行動に及ぼす可能性は残るのである。政府は自らの経済体制と、時としては知らずのうちにあるが、自らの経済的均衡をも選択できるのである。(P.174)

すでに述べたように、新しい政策体制は多くの社会主義的特徴を共通に持っていた。この発見は、危機の時代には資本主義よりも社会主義が求められることを示唆している。大恐慌は、われわれがそう思いたがるような資本主義の最終的危機に近いものであった。それは持続的な新秩序を生み出さなかったけれども、資本主義に社会主義的要素を導入したのである。大恐慌は、第二の三十年戦争が血の終結を迎えた後で、社会民主主義と混合経済を誕生させた。無秩序は社会主義を育てるのである。(P.174)

大恐慌からの回復において、期待が経済状況に対して大きな役割を果たし、期待の形成において政府が重要な役割を演じる。また大恐慌時のレジーム転換とは、新しい政策体制へ「社会主義」を導入することであったというのがテミンの結論である。

以上見てきたように、テミンが主張する大恐慌からの回復においてのレジーム転換とは、「金融政策の転換」という狭い範囲ではなく、「社会主義」体制への転換という広い範囲の話であると思われる。

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