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「レンテンマルクの奇蹟」前夜ー2つの通貨改革案

 ドクトル・マイヤー(注:オスカー・マイヤー, 当時のドイツ民主党議員)自身は、民主党の前幹部であるが、次の伝説に対して極めて鋭く反対している。つまり、当時彼の党の同志であったドクトル・シャハトは、帝国銀行の監察部が一致して反対投票したのに反して、1923年12月に政府によって帝国銀行総裁に任命されたのだが、その彼がマルク安定の功績があるとかその父であるという伝説に反対した。

 ドクトル・マイヤーは続ける。「彼が帝国銀行総裁に任命された時、幸運なことに、レンテン・マルクはすでに造られており、安定化計画は完成していた。1924年の春の帝国議会選挙の時、当時の民主党の彼の党友たちがビラを配っていたのを、彼は許していた。そこにはこうあった。『誰がレンテン・マルクを造ったのか? 民主党党員ドクトル・シャハトである。』私はそのビラで、それが配られた後で初めてそれを知った。私は事実の歪曲から守られた。」

 最も正確に事実経過を知っているドクトル・マイヤーの叙述は、ヒルファディングが1923~1924年の通貨改革の本来の創始者であったこと、そしてその改革がインフレーションの混乱を終わらせたことについて、最後の疑いを拭った。マイヤーの判断は、それがブルジョアの側からなされたものであり、それゆえ決して党に合うように影響されていないから、それだけ一層価値が多い。

アレクサンダー・シュタイン『ヒルファディング伝』, P.45

 第1次世界大戦後のドイツにおけるハイパーインフレーションは、1兆マルク=1レンテンマルクの交換比率で、デノミネーションを行うことで急速に終焉した。これを「レンテンマルクの奇蹟」と呼ぶ。今では、「レンテンマルクの奇跡」はもっぱらヒャルマル・シャハトの功績とされているが、マルク通貨改革案の作案、その後のドイツレンテンバンク設立令には、実はシャハトは関わっていない。マルク通貨改革原案の作成は、マルクス経済学者でグスタフ・シュトレーゼマン内閣で蔵相を勤めたルドルフ・ヒルファディングと経済学者であったカール・ヘルフェリッヒの功績が大きい。

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ルドルフ・ヒルファディング(1877年8月10日~1941年2月10日)

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カール・ヘルフェリッヒ(1877年7月22日~1924年4月23日)

 よく誤解されているが、「レンテンマルクの奇跡」のときのライヒスバンク総裁はシャハトではない。1923年11月15日にレンテンマルクの印刷が開始したときの地位はドイツ通貨監督管(ライヒ通貨委員)であり、12月22日にルドルフ・ハーフェンシュタインの後任として就任した。これは政策実行者としての功績が認められたのだろう。

 本稿では、ルール占領から「レンテンマルクの奇跡」前夜のマルク通貨改革案が纏まるまでを述べていく。

ハイパーインフレーションへと至る道

 第1次世界大戦後の1921年5月1日、連合国はロンドン会議にて1320億金マルクという莫大な賠償金をドイツに課し、拒否した場合はルール地方の占領に踏み切ると最後通牒をドイツに突きつけてきた。これはドイツの支払能力を遥かに越えていたため、賠償金の支払は滞り、後のフランス・ベルギー両国によるルール占領へとつながっていく。

 意外なことだが、ドイツ経済は、22年には工業生産は戦前の7割にまで回復しており、22年には失業率は、完全雇用に近い1%台にまで下がっていた。
しかし、その背後でインフレが着々と進行していた。インフレの原因としては、資本家が労働者の急進化を防ぐために、賃上げを認め、それを価格に転嫁するコストプッシュインフレや社会政策費の増大、さらに税制改革の不徹底などが挙げられる。さらに、マルク通貨の下落を見込んで積極的に投機をする者がおり、マルクの相場下落に拍車をかけていた。マルクの対ドル交換レートは19年末には10倍以上、21年末には44倍になり、22年になると夏以降400倍に、秋には1000倍を越えていた。

1923年1月、ルール占領

 連合国賠償委員会はイギリスの反対を押し切り、ドイツの石炭供与を不履行であると認定した。これに基づき、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍はルール地方に進駐して占領した。これに対して、ドイツのヴィルヘルム・クーノ内閣は賠償支払いを停止し、ルール地方の住民に消極的抵抗を命じた。それに対して、フランスは、10万人を超える公務員をルール地方からの追放することで対抗した。

 ドイツは、ルール工業地帯を失ったことで供給能力が毀損された。また、ストライキ中の労働者への補償金と追放された公務員への給与、ルールの自治体への援助、企業支援金といった厖大な額の支出に迫られた。その額は35億マルクにも上り、ライヒスバンクに政府短期証券を直接引き受けさせることで賄われた。厖大な支出のためにマルクは際限なく刷られた。23年秋には造幣局では紙幣印刷が間に合わず、132もの私企業に紙幣印刷を委託する状況になり、末期には片面のみ印刷した紙幣すら発行された有様であった。

 インフレは加速し、ハイパーインフレーションが起こった。戦後、一貫して下落していたマルクは1923年11月には1ドル=4兆3000億マルクにまで下落していた。


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(トーマス・J・サージェント「4大インフレーションの終焉」(サージェント『合理的期待とインフレーション』東洋経済新報社, 1988 に収録)

シュトレーゼマン内閣の成立

 1923年8月、ドイツ社会民主党が不信任案を突きつける形でクーノ内閣は退陣する。15日にドイツ人民党・社会民主党らによるシュトレーゼマン「大連合」内閣が発足し、ヒルファディングは蔵相として入閣した。シュトレーゼマンは施政方針演説で、ルール問題の国際的仲裁裁判への付託、金公債等による財政再建と通貨安定などを訴えた。ここからハイパーインフレーションの収束へと歴史が動いていく。

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グスタフ・シュトレーゼマン(1878年5月10日~1929年10月3日)

「レンテンマルクの奇蹟」前夜ー2つの通貨改革案と修正案、そして妥協としての最終案

最後の妥協案として、崩壊した旧マルク(ライヒマルク)や、さまざまな民間企業が発行している通貨に代わる、新たなマルクを導入することで意見が一致した。これが「レンテンマルク」(地代マルク)と呼ばれるもので、理論上はドイツの地価によって裏打ちされ、その地価はさらにドイツに現存する金によって担保されるという仕組みだった。まさに苦肉の策だった。というのも、すべての国有不動産の価値など、誰にも評価することはできないからである。しかし、安定に向けた第一歩であることは誰の目にも明らかだった。この制度はフランス革命のときも、通貨を安定させるために使われたことがあった。社会主義者の大蔵大臣ルドルフ・ヒルファディングの創意豊かな精神から生まれた案だった。ただ、彼は実行よりも立案のほうが得意だった。首相のシュトレーゼマンは、まもなくハンス・ルターを大蔵大臣に据えた。彼は独創性の点では前任者に劣るが、辣腕家だった。 

ジョン・ワイツ『ヒトラーを支えた銀行家』(P.75~P.76)

 ハイパーインフレーションを収束させるために2つの案が出された。1つは元帝国財相であったヘルフェリッヒによる案であり、もう一つはヒルファディングによるものであった。

ヘルフェリッヒ案
 ヘルフェリッヒは、ライ麦価値による通貨銀行の設立案を提起した。これはライヒ麦マルクをドイツの穀物の総収穫高で裏打ちすることで、インフレの影響を受けないようにするのを目的とした。これにより、ドイツの農業関係者がライ麦マルクの鍵を握ることで、穀物価格の変動を防ぐことを狙った。具体的には、資本金を12.5億ライ麦マルクとして、資本金は農林業用土地につきライ麦価値表記の年利5%の土地債務、商工業から同額の土地債務または債務証書を入手することで捻出する。通貨銀行は2年間で21.25億ライ麦マルクまでを国庫証券の割引や他の信用業務の限度とする。金本位が再建されて、貸付金が国から通貨銀行に返却された暁には、国はライ麦マルクの発行停止と回収を要求しうるとした。

 ヒルファディングは、9月7日の閣議でにて、価値安定支払手段は「金のみ可能」であると述べて,ヘルフェリヒ案に対して否定的な見解を示した。

ヒルファディング案
 一方、ヒルファディングは金価値による通貨銀行の設立案を唱えた。具体的には、中央銀行が設立者となり、自らの1億金マルクと民間の8000万金マルクで株式資本1.8億金マルクの金発券銀行を創設する。この組織を補完するために、ヘルフェリヒ案の一部を取り入れて、経済界に対して資本価値の5%の額で抵当を設定し、金発券銀行はそれをもとに金債券を発行する。中央銀行を主体に金発券銀行を設立して金に基づく新支払手段を創出して、同時に経済界の資産の抵当として金証券の発行することで、国庫の救済を図ることを目的とした。

ルター修正案
 ヒルファディング案に対して、ドイツ中央銀行は反対し、金発券銀行の設立は不可能になった。財相のハンス・ルターは、法務省や経済省、中央銀行などから専門家を招いて修正案をまとめた。具体的には、24億新マルクの資本金と準備金で通貨銀行を設立し,農林業地では国防分担金価値の3%の金額で金マルク表記年利6%の土地債務を、商工業から同額の土地債務と債券を入手し,それに基づく年利5%レンテン証券500金マルクごとに、500新マルクの貨幣を発行する。また今後2年間で通貨銀行は、20億マルクを国家に信用供与するとした。修正案は、ヘルフェリヒ案を踏まえつつ、ライ麦価値でなく金価値を基礎とした。

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ハンス・ルター(1879年3月10日~1962年5月10日)

通貨改革最終案
 ヒルファディングは、ルター案を叩き台として省内で法案の作成に取りかかり、最終案をまとめた。最終案の具体的な内容は、農工商業等の代表により設立される通貨銀行は資本と準備金を32億新マルクする。資本金及び準備金は、農林業地につき国防分担金価値の4%で金マルク表記年利6%の土地債務を、商工業企業からも同額の土地債務ないし債券を入手することで賄う。通貨銀行は国に対して今後2年間に年利6%で12億新マルクを信用供与して、中央銀行と私的発券銀行に対しては、無利子で12億新マルクを信用供与する。法的支払手段は新マルクと中央銀行券等とするといったものであった。

 最終的な法案において、ヒルファディングは、ルター案に基づき、資本と準備金を24億新マルクから32億新マルクに、国防分担金価値の3%から4%に引き上げて資本基盤を強化し、また通貨銀行の国への信用を12億新マルクに削減して、中央銀行や私的発券銀行とも12億新マルクまで取引するように変更した。

「レンテンマルクの奇蹟?」と緊縮財政政策

 1923年9月26日にルール地方での消極的抵抗が停止された。1923年10月15日にドイツレンテンバンク設立令によりレンテンバンクが設立、11月15日から農業・商工業資産を担保にし、金を基準とした新貨幣レンテンマルクが発行された。レンテンマルクへの切り替えにより一夜にしてハイパーインフレーションが収まったとする「レンテンマルクの奇蹟」神話であるが、その裏側で緊縮財政が強力に実行されていたことは今では忘れ去られてしまっているだろう。

人員削減
 1923年10月27日のライヒ人件費の削減に関する政令が出された。この法令では、翌年の4月1日までに23年10月1日現在の全人員の15%を、最終的には25%を削減することを予定していた。その実施にあたっては、65歳以上の職員の強制年金退職、65歳以下の職員の場合の退職優遇、昇任停止、一部例外を除く雇員の一般的解雇などが行われた。地方自治体では、ライヒからの補助金が15%削減されることになり、さらに地方自治体における人員削減が強制された。最終的に1924年4月までに合計39万7000人の人員が削減がなされた。

給与引き下げ
 1923年10月12日の第12次給与法補足に関す政令により、公務員給与が大幅に引き下がられた。これは上級公務員であればあるほど、下げ幅が大きかった。

失業扶助の抑制
 レンテンマルクへの切り替え後の23年12月、24年1月には失業者が増大していたにも関わらず、失業扶助予算は、340万GM(ゴールドマルク)に据え置かれた。財政当局の考え方は、失業者が「どうにか生きてゆく」だけのものに留めておくべきだというものであった。扶助率は元来強く抑制されたのであるが、さらに抑制された。

 その他にも教育・科学・芸術などのための文化的な経費が極力抑制されたほか、建設活動もそのすべてが停止された。

 決してレンテンマルクの切り替えだけでハイパーインフレーションが収束したのではないことを最後に強調しておきたい。(了)

参考文献

アレクサンダー・シュタイン『ヒルファディング伝』(成分社, 1988年)
石田勇治『20世紀ドイツ史』(白水社, 2005年)
河野裕康『賠償問題とヒルファディングの経済政策論』(一橋大学社会科学古典資料センタ― Study Series (51), 1-77, 2004年)
ジョン・ワイツ『ヒトラーを支えた銀行家』(青山出版社, 1997年)
トーマス・サージェント『合理的期待とインフレーション』(東洋経済新報社, 1988年)
中村良宏『レンテンマルクの「奇蹟」の財政』(経済学研究 43(3), p73-91, 1977年)
成瀬治, 山田欣吾, 木村靖二『世界史歴史大系 ドイツ史3』(山川出版社, 1997年)
リタ・タルマン『ヴァイマル共和国』(文庫クセジュ, 2003年)








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