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[読書メモ] 高木久史『通貨の日本史』(中公新書) その①

本書は、古代での無文銀銭の誕生から現代までの日本の通貨史が書かれている。時代区分により、全四章で構成されている。

第一章 銭の登場 <古代~中世>

冒頭にて、貨幣の定義として、経済学の教科書によく書かれている「交換手段」、「価値尺度」、「価値貯蔵手段」に加えて、債務決済や贈与、納税など社会的義務に基づく「支払手段」が挙げられている。(P.4) 日本初の「国定貨幣」である富本銭の前には、民間では、無文銀銭が存在した。無文銀銭は額面が大きく、庶民が使うものではなかったようだ。

天武天皇の時代に、日本最古の銅銭である富本銭が製造された。富本銭は、以前には厭勝銭(吉祥の文句や特殊な図像を刻んで、縁起物または護符として所持した銭)だと考えられていたが、今の学説ではそうではないという説が優勢のようだ。ちなみに、本書の二十一年前に発行された東野浩之『貨幣の日本史』(朝日選書)だと厭戦銭説を採用している。富本銭の発行目的の一つとして、藤原京建設のための物質購入と労賃の支払い等が挙げられている。和同開珎から始まる奈良時代に発行された皇朝十二銭の多くが、このような「国家支払手段」として発行された。上段で挙げた貨幣の定義の四つ目だ。皇朝十二銭による国家支払の例を挙げると、以下のように、銭と古代朝廷による建設事業が対応している。

富本銭(683年)⇒藤原京建設(694年遷都)
和同開珎(708年)⇒平城京建設(710年遷都)
万年通宝(760年)⇒平城京改造費用や新羅出兵計画(759年)のため
神功開宝(765年)⇒西大寺建設(765年)

和同開珎を例に取ると、古代における銭は、①官僚や労働者は朝廷に労働を提供して、対価に銭を得る。②官僚や労働者は商人や地方豪族に銭を支払い、対価に必要物質を得る。③商人や豪族など物質提供者は朝廷へ銭を支払い、納税義務を完了する。以上の経路で銭が流通されると、朝廷は考えていたようだ。(P.14)  筆者によれば、和同開珎は「政府の債務証書」であり、

総じて、朝廷が財政支出した銭の受領を人々に強制する政策である。国家支払手段の機能を朝廷は期待しており、一般的な交換手段の機能を第一目的とはしていない。(P.15)

と述べている。まさに租税貨幣論(Taxes Drive Money)といったところか。

平安京建設以降では、地方の豪族たちは自らの威信を示すために旧銭を貯めこんだ。旧銭が朝廷側に却ってこないこと、銅の国内生産が不調になったことから原料である銅が不足した。それに加えて、大規模な建設事業や戦争が無くなり、国家支払手段を発行する必要がなくなったのが、十世紀に銭の発行が停止した背景にあるとしている。材料の銅不足と古代朝廷による建設事業の中止が貨幣発行を止めたようだ。(P.22)

日本古代における貨幣受容史は、自分のtwitterのTLを賑わす租税貨幣論で大部分説明できるが、渡来銭が猛威を振るい、撰銭が頻発した日本の中世社会では、どうも租税貨幣論「だけ」では収まりが悪い部分が出て来る。

中世(十二世紀~十六世紀)では、南宋、金、元から渡来銭が大量に流入した。南宋では紙幣の使用、金では銭の使用の禁止、元では紙幣専用政策の採用により、いずれも銭が大陸から押し出される形で中国銭が日本へ流入した。中世では、渡来銭を「納税支払手段」として政府がその流通を促した形跡はなく、渡来銭は社会で自律的に使われ始めたのは特徴であるとしている。(P.28~P.45)

従来の説だと、室町期の日明貿易(勘合貿易)によって中国から大量に銭が輸入された、中には日明貿易による銭輸入が当時の物価を左右したとまで記述されている本があるらしいが、遣明船は、銭を毎回輸入していたわけではないので、銭輸入量のうち勘合貿易を占める割合はさほど大きくはないのが実情のようだ。それに加えて、十五世紀には日中の金・銭の比価がほぼ等しく、当時の中国の基軸通貨である銀ベースで計算すると、十五世紀から十六世紀初頭の中国では日本より銭の価値が高かった。勘合貿易による輸入では、銭よりも生糸などの利益が大きい商品を輸入した方が優位だった。(P.46~P.51)  筆者によれば、


十五世紀には幕府により銭が大量に輸入されたと従来はイメージされてきたが、世紀全体ではそのイメージは当てはまらず、見直しが必要である (P.47

(なお、twitterで教えて貰ったが、日明貿易に関しては、本書の参考文献として挙げられている川戸貴史『中世日本における貨幣秩序』(勉誠出版)の第二章がソースとの事。飯田泰之先生多謝!)

今日はここまで! 続くかも。

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