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セイ法則について私が知っている2,3の事柄 その①

セイの法則ってそういう話じゃないから。節分の後で大量に売れ残った恵方巻きやコミケ終了後に段ボールいっぱいの刷りすぎた同人誌といった「ある特定の財の売れ残り(これを部分的供給過剰という)が存在する」といった話ではなく、「市場全体を含めた財の売れ残り(これを一般的供給過剰という)が生じない」というのが、正しい『セイの法則』の解釈である。

1. セイの販路説 ーセイ自身は「供給はそれ自ら需要をつくりだす」とは実は書いていない。

ケインズの著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』で名付けられた"セイの法則"は、フランスの経済学者であるジャン=バティスト・セイが『経済学概論 Traité d’économie politique』の「販路について」という章で展開された説が元ネタである。セイが展開した説は後に「販路説」と呼ばれる。販路説の特徴を箇条書きにすると以下の通りだ。

  1. 生産者は生産物(財・サービス)を生産して、消費者は生産物を購入する。

  2. 生産者は購入代金を消費者から受け取り、他の生産物の購入に充てる。また、貨幣は飽くまで一時的な交換手段にすぎない。

  3. ゆえに、生産物は他の生産物の販路(市場のこと)を開き、生産物は生産物を以って生産物に支払うことになる。

注意すべきなのは、ケインズはセイの法則を「供給はそれ自らの需要を創り出す "supply create its own demand"」と一言でまとめたが、セイ自身はそのような表現を著作の中では直接的には使っていない。

生産物に対して真に販路を提供するのは他の生産物である。物になんらかの効用を創造することで、これに価値を与えようと生産を行う者が、この価値の他人の尊重するところとなって支払いを受くるに至らんことを希ひ得るは、他人がこの物品を獲得する資力を有する場合に限られる。よって、この資力は他の価値、他の生産物に他ならない。一見矛盾しているようだが、生産物に対し販路を開くものは生産であると言わなければならない。

山口茂(1948).『セイ「経済学」』,春秋社.

…..『生産物の購買は他の生産物の価値をもってのみ行われる』という販路の理論は次のようないくつかの推論を生じさせる……

生産者の数が多いほど、また生産物の量が多いほど、ますます販路を見出すことは容易となり、その方面はますます多岐に渡り、その範囲はますます拡大する。生産を完了した生産物はその瞬間よりその価値の全額だけ他の生産物に対して販路を提供する。すなわち、生産が完了した物は直ちに貨幣に変えられて、貨幣を得た者は直ちに他の生産物に変えようとする。ゆえに一生産物が生産されたならば、その瞬間より直ちに他の生産物に対して販路を開くものであるからである

同上, P.41

セイが言っていることは、「生産は他の販路(市場のこと)を提供する、つまり、あるモノの生産は他の生産物を供給する」である。よくネット界隈で「セイは、ある市場で生産が行われたのならば、その市場で生産されたモノが必ずその市場で売り切れると主張していた!」という頓珍漢な主張を見かけるが、セイは実はそんなことは言っていない。(もっともこの誤解はケインズの乱暴なまとめ方にも問題があるが…..)

セイの「販路説」の考えは、後に「一般的供給過剰は起こり得ない」という命題に置き換えられて、リカード、ジェームズ・ミル、J.S.ミル、マーシャルらによって引き継がれた。ケインズは古典派経済学者たちと限界革命以降の新古典派経済学者たち(ケインズは古典派経済学と新古典派経済学をまとめて『古典派』として分類した)に地下水脈として脈絡と流れる「一般的供給過剰の不可能性」という命題を「セイ法則」として槍玉に挙げて批判したのである。

余談だが、「供給はそれ自らの需要を創り出す」と言い始めたのは、実はケインズが初めではないという説もある。ナイアル・キシテイニーによれば、

今日ではセーの法則として知られる表現を借りて言うなら、「供給はそれ自身の需要を生み出す」のだ。実際には、セーは決してこうした言い方はしなかった。おそらくこれは、1921年にアメリカの経済学者フレッド・テイラーが、その著作『経済学原理』で考案したものだ。(P.74~P.75)

ナイアル・キシテイニー(2014)『経済学大図鑑』,三省堂.

とフレッド・ティラーが起源のようだが、一方でポストケインズ派経済学者であるポール・デヴィットソンによれば、これをジェームズ・ミルのが起源としており真相は藪の中である。

2 『一般理論』におけるセイの法則の記述 ーケインズは恵方巻の売れ残りとか、しょうもない話をしていない

ケインズがセイの法則について言及しているのは、『一般理論』の第2章「古典派経済学の公準」と第3章「有効需要の原理」だ。まずは、第2章の該当箇所を引用してみよう。

セーやリカードの時代この方、古典派経済学者は供給はそれ自らの需要を創り出すと説いてきた。何やらいわくありげな、とはいえ明確に定義されているわけではないこのような言い回しで彼らが言わんとしたのは、生産費の全額は直接・間接、必ずその生産物の購入に支出されるということである。(P.27)

かくして、生産物全体の需要価格はその供給価格に等しいとする規定こそ、古典派理論の「平行線公理」と称するものである。(P.32)

本書の処々で、われわれは古典派理論が次の諸仮定に依存していると考えた。順に言うと、

1. 実質賃金は現行雇用の限界不効用に等しい。
2. 厳密な意味での非自発的失業は存在しない。
3. 産出量と雇用がどのような水準にあったとしても総需要価格と総供給価格は等しくなるという意味で、供給は需要を創り出す

といっても、これら3つの仮定は、立つも一緒、倒れるも一緒、それらのいずれをとっても論理的に他の二つを包含しているという意味で、実質的には一に帰す。(P.33)

ジョン・メイナード・ケインズ(2014)『一般理論』上巻, 岩波文庫.

冒頭の「供給はそれ自らの需要を創り出すの文言だけが有名になってしまったが、その直後に「生産費の全額は直接・間接、必ずその生産物の購入に支出される」、別の個所では「生産物全体の需要価格はその供給価格に等しいとする規定」、そして最後の章のまとめでは「産出量と雇用がどのような水準にあったとしても総需要価格と総供給価格は等しくなるという意味で、供給は需要を創り出す」と表現されている。

続いて、第3章の該当部分。第3章ではセイの法則がちゃんと定義されている。

N人を雇用することによる産出量の総供給価格をZとすれば、ZとNの関係は、Z=Φ(N)と書くことができる。これらを総供給関数と呼ぶことにする。
同じく、企業者がN人の雇用から得られると期待する売上収入をDとすれば、DとNの関係は、D=f(N)と書くことができ、これらを総需要関数と呼んでいい。・・・・・

・・・・・ひるかえって、かつて「供給はそれ自らの需要を創り出す」と
いう言い回しで定言的に表現され、今でも正統派経済理論の背後に横たわっている古典派の教義は、これら両関数の関係について、ある特殊な仮定を設けている。「供給それ自らの需要を創り出す」というのだから、f(N)とΦ(N)がNのすべての値つまり産出量と雇用のすべての水準について均等化する。Nが増えてZ(=Φ(N))が増加すれば、D(=f(N))も必ず、Zと同量、増加しなければならない。換言すれば、総需要価格(あるいは売上収入)はいつでも総供給価格に順応して、それゆえ、N*がどのような値をとっても売上収入DはそのNに応じた総供給価格Zに等しい値をとる、と古典派理論は規定しているのである。(P.37~P.38)

同上

つまり、ケインズは、古典派理論のドグマであるセイ法則を「(貨幣を除いた)総需要価格Nと総供給価格Zは等しい」と定義している。個別の市場の需給不均衡の話を全くしていないのは自明であろう

3. 現代的な『セイの法則』解釈 ー終わりに代えて

最後に『セイの法則』を現代の経済学者たちはどのように解釈しているか引用して本稿を終えるとしよう。まずは、主流派の教科書から

・・・・・しかし、上の単純な議論は、生産者(供給者)から始まる必然性はまったくない。まず購入者(需要者)がある生産者からある財を購入したとすれば、「需要が供給を生み出す」ということになってしまう。「供給と需要のいずれかが主なのか」ということが上述の議論の本質ではなく、①貨幣を保有している者は即座に貨幣を使い、②あらゆる財を合わせると市場全体で需要と供給が一致することを述べているにすぎない。・・・・・セイ法則は、貨幣に対して特殊な仮定を置いて、経済全体では財の需給が一致するということを述べているに過ぎない。セー法則を「供給は自ら需要を生み出す」と解釈するのは、ロジカルではなく、かなりレトリカルといえよう。(P.156)

斎藤誠、岩本康志、太田聰一、柴田章久(2010)『マクロ経済学』,有斐閣.

続いて、ポストケインズ学派経済学者のポール・デヴィットソンの著作から

貨幣単位で測った総供給(または企業家の期待売上収入)をZ、貨幣単位で測った総需要(または計画支出)をDとして、貨幣賃金率を𝟂 , 労働者数をNとする。総需要関数は、D=f(d (ω, N))、総供給関数は、Z=f(z (ω, N))として表される。

セイ法則は主張することは、「Nのあらゆる値、すなわち産出量および雇用のあらゆる水準において」

f(d (ω, N))=f(z (ω, N))

が成り立つことである。いいかえれば、セイ法則にしたがう経済では、(競争ないし独占度を所与として)いかなる雇用水準においても企業が負担した総生産費は、当該産出物の販売によって常に回収される。総需要曲線と総供給曲線は完全に一致するのである。現行賃金で働く意思と能力のあるすべての人々を、企業家が雇い入れるのを妨げるような有効需要の不足は、決して生じない。

ポール・デヴィッドソン(1997)『ポスト・ケインズ派のマクロ経済学』,多賀出版.

最後に数理マルクス経済学者である松尾匡の見解

セイ法則を「供給は自ら需要を創る」と要約したのはおそらくケインズが最初である。もちろん、セイ自身の言ったことは、総需要額は総供給額によって決まるということであり、ケインズ自身も当然分かっていた通り、個々の産業での財の需要がその供給で決まるというようなナンセンスであろうはずがない。しかしケインズの要約は容易にそのような誤解に通じるものである。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/45/45/45_45_117/_article/-char/ja/

今日はここまで!

参考文献

<書籍>
山口茂(1948).『セイ「経済学」』,春秋社.
馬渡尚憲(1997).『経済学史』,有菱閣.
岡田元浩(1997)『巨視的経済理論の軌跡』,名古屋大学出版会.
ポール・デヴィッドソン(1997)『ポスト・ケインズ派のマクロ経済学』,多賀出版.
斎藤誠、岩本康志、太田聰一、柴田章久(2010)『マクロ経済学』,有斐閣.
ジョン・メイナード・ケインズ(2014)『一般理論』上巻, 岩波文庫.
ナイアル・キシテイニー(2014)『経済学大図鑑』,三省堂.

<論文>
佐藤伸明(1989).『表象としてのセイ法則』.『商學論集』 57 (4), 85-109.
松尾匡(2004).『書評:Steven Kates (eds.): Two Hundred Years of Say's Law』.『経済学史学会年報』, 第45巻45号.
小林保美(2016).『ワルラス法則とセイ法則』.富士大学紀要, 第49巻第1号.
斎藤仁史(2019)『「供給が需要を生む」の史的探究』.『國學院大學北海道短期大学部紀要』, 36巻.


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