見出し画像

[読書メモ] 高木久史『通貨の日本史』(中公新書) その②

昨日の続き。第二章では戦国時代~萩原重秀による貨幣改鋳が行なわれた江戸前期にかけての通貨史を扱っている。日本の戦国・安土桃山時代における通貨史を扱った、高木久志『撰銭とビタ一文の戦国史』(平凡社)本多博之『天下統一とシルバーラッシュ』(吉川弘文館)を以前に読んだことがあるので、そちらも参考にして書いていく。思った以上に長くなってしまったので、今回は、戦国時代から江戸幕府開幕直前まで。

第二章 三貨制度の形成 <戦国~江戸前期>

中世全般では、商業・流通等の発達により民間での貨幣需要が増えていた。それに対して、主に大陸からの渡来銭による貨幣供給は概ね不足しており、銭が不足気味であったといえる。銭が無いのなら民間はどうしたのか? 銭が無いのなら勝手に鋳造する銭が無いのなら紙を使うといった対応を民間はしていた。

まずは、私鋳銭について。「銭が無ければ作ればいい」というわけで、中世では全国各地で勝手に銭は「私鋳」されていた。これを私鋳銭と呼ぶ。例として、洪武通宝を模造した加地木銭(鹿児島県)、永楽通宝を模造した模造永楽通宝(茨城県東海村)がある。次に紙媒体の使用について。「銭が無ければ紙を使えばいい」というわけで、民間では紙媒体が交換手段として使われ始めた。高木久志『撰銭とビタ一文の戦国史』(以下、高木[2018])によると、切符系文書がすでに十世紀から十二世紀に登場していた。また、畿内の商人の間では、割符や祠堂銭預状といった紙媒体の貨幣が使われていたようだ。十五世紀後半から十六世紀にかけて、庶民の間では戦乱による輸送コストの増加と銭不足により、紙さえ使わない口頭による信用取引が促された。信用取引は、平和が訪れた江戸時代に一般化したのではなく戦乱や銭不足が相次いだ戦国時代に登場したのが実情である。(高木[2018] P.52~P.69)

日本中世における銭流通に関して、欠かせないのは、「撰銭」という行為である。撰銭とは、「売買や納税などの支払決済時に銭を受け渡すときに、特定の銭の排除や受取り拒否をする行為」である。日本の中世では、撰銭が頻発した。流通している銭が少ないのにも関わらず、銭の受け取りを拒否していたわけである。民間では旧銭(宋銭)が好まれて新銭(明銭)が嫌われた。撰銭には地域差があり、洪武通宝は九州で好まれた。一方、永楽通宝は畿内で嫌われて、畿内を挟む両地方で好まれて、関東では特に好まれた。後北条氏領国においては、基準銭に対して二倍の価値があり、永楽通宝は「精銭化」していた。一枚で一文の銭を基準銭と呼び、それ以下の価値しかない銭を減価銭と呼ぶ。撰銭により、民間では「銭の階層化」が起こっていた。

この時期で日本の貨幣史に多大な影響を与えた出来事は、やはり石見銀山開発から始まった「シルバーラッシュ」だろう。石見から始まるシルバーラッシュについては、本多博之『天下統一とシルバーラッシュ』(吉川弘文館、以下、本多[2015]) が詳しい。1533年に博多商人の神谷寿貞によって、灰吹法が石見に伝わり、石見で本格的に銀の採掘と精錬が開始される。灰吹法は、石見から但馬生野銀山、領国内に鉱山(実際には銀・アンチモン含有鉱山)を持つ相良氏に伝わった。石見で発掘・精錬された石見銀は、最初に海外との貿易決済手段として使われた。国内通貨よりも貿易通貨の先行していた事実がある。石見銀は、採掘が始まった当初の1540年代には、朝鮮半島と「税の銀納化」により銀需要が高まっていた明へと大量に流出した。その後、アジアに進出してきたヨーロッパ勢力(スペイン、ポルトガル)との交易に使われた。

1545年にポトシで銀鉱が発見、1570年にポルトガル船が長崎で交易を開始して、マカオ―長崎間で定期航路が開設される。翌年にスペインがマニラ市を建設、マニラ―アカプルコ(メキシコ)間で定期航路を開設する。これにより、ポトシ銀と石見銀が銀需要の大きい明へと流れ込むようになった。(本多[2015] P.47-48) この時から日本が世界経済システムに取り込まれたと思う。

東国に目を向けると、十六世紀前半には、駿河・伊豆・甲斐などで金山の開発が進んだ。西国では銀が優位、東国では金が優位となった。西国では銀鉱山が多く、銀が貿易通貨として多く使われた。一方、東国では金山が多く金は高額商品の取引通貨として使われた。中世に端を発する、西国における銀優位、東国における金優位という社会慣習が、所謂、江戸時代における「江戸の銀遣い、大坂の銀遣い」につながる。(本多[2015]P.50~P.52)

石見銀は毛利氏によって軍事支出に使われた。なおここで気をつけておかなければならないのは、「戦国毛利氏は、撰銭令をはじめ、銭貨の取り扱いや銭納への対応を明文化したような通貨法令が確認できない。」という事実である。(本多[2015] P.66)  毛利元就の代までは、石見銀は軍事支出以外の利用を禁止されていたが、その死後に厳島神社遷営の費用に充てられて、銀納される。ここから厳島を起点とした銀流通が活発化した要因になった。(本多[2015] P.76)

人々の撰銭に対して、戦国大名たちは撰銭令を出すことでそれに対処した。1485年の大内氏による撰銭令、1566年の浅井長政の撰銭令、1569年の織田信長による撰銭令などがある。信長による撰銭令(永禄貨幣法)を見て行こう。信長は上京後に撰銭令を出した。内容は以下の通りである。

① 金一両=銀7.5両=銭1.5貫文とする
② 銭を基準銭、基準銭の1/2, 1/5, 1/10に減価させる銭、排除対象の銭の五種類に分ける
③ 通貨として米の使用を禁じる


①は金・銀・銭の換算比の設定、②は当時の京都における銭使用の社会慣行の追認、③は食糧事情が関わる。だが、「この撰銭令(米の使用の禁止)には、人々は従わなかった。」(P.74)  当時の京都にはさまざまな通貨が流入しており、通貨としての米も含めて銭が階層化していた。不安定な銭階層の中で米の「信用」が比較的高く、米が他の銭と比べて精銭化したのが背景にあると個人的に思う。本多[2015]によれば、信長が「幕府・禁裏用途の名目で洛中洛外に段別一升の米を賦課徴収し、それを上・下京を構成する町々に五石ずつ預けて運用させて、三割分の「利米」(利子分の米)を禁裏御倉(朝廷の財政機関)に毎月納入させた」(P.99)ことから、当時の京都では銭での徴税が困難であり、信長は米での徴税に切り替えたと述べている。米での徴税からその量の計量正確性が生じて法定枡が誕生し、そこから米の価値尺度化が進んだ結果、後の石高制へ移行の兆しがみられるとしている。以下、結論部分を引用。信長、銭の社会慣行に屈服するといったところか。

「以上のように、異なる価値が多様な銭貨が流通する中、公武用途段米の賦課やそれを元手とする貸付・利米収納を機に整備された量制のもと、米穀量に基づく石高が知行給与だけでなく、軍役賦課の基準となり、ここに権力編成の基本原理としての近世石高の原型が誕生した。すなわち、年貢米納という「石高」本来の属性に知行給与・軍役賦課という権力編成の基本要素が加わることにより近世石高制の祖型が生まれたのであり、その意味で石高制は織田政権の政策展開から誕生したといえる。」
本多博之(2015)『天下統一とシルバーラッシュ』、(吉川弘文館, P.106)

信長の後を継いだ秀吉は、ビタの基準化を推し進めた。ビタとは、はたかけ(端が破損)、ひらめ(無文銭)、ころ(加治木銭)、へいら(仕上がりが粗末な銭)を除いた特定の低品質銭以外すべてを指す。ビタの基準化は銭の階層化を平準化させる政策であったが、ビタの基準化自体は、伊勢、京都、堺ですでに行われていた社会慣行であり、実は追認したに過ぎない。信長・秀吉の例を見るように、時の権力がしばしば民間の社会慣行を追認して法制化するという現象は日本史上でたびたび見られる現象である。秀吉による金貨・銀貨の製造は後に江戸幕府による金貨・銀貨製造に引き継がれる。(P.79~P.84)

次回は江戸幕府における通貨政策について。今日はここまで! 疲れた.....

(参考文献)
本多博之(2015)『天下統一とシルバーラッシュ:銀と戦国の流通革命』、吉川弘文館
高木久史(2016)『通貨の日本史-無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』、中公新書
高木久史(2018)『撰銭とビタ一文の戦国史』、平凡社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?