見出し画像

【小ネタ】紙幣を詰めた古い瓶

質問きてた!


Q:ケインズ『一般理論』の第10章の「紙幣を詰めた古い瓶」の喩え話は、財政政策と金融政策の同時一体発動を指したり、政府紙幣を指したり、あるいは現金給付を指すと言われてますが、本当ですか?


結論: ケインズはそんなことを書いていない。

「紙幣を詰めた古い瓶」の喩えが出てくるのは、『一般理論』の第10章「限界消費性向と乗数」。第10章は全6チャプターから成り、最後のチャプター6でこの喩えが出てくる。第8章にて、消費性向が一定であるときに、雇用量の増加は投資の増加に伴ってしか起きないことが示されており、第10章は第8章の話の続き。(以下、ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(山形浩生訳)講談社学術文庫, 2012年からの引用)

これから見るように、この単純な原理は以前と同じ結論をもたらします。つまり、雇用が増えるには並行して投資が増えるしかない、ということです。ただしもちろん、それは消費性向が変わらない場合です。というのも消費者は雇用が増えた場合の総供給価格分ほどは消費を増やさないので、増えた雇用はそのギャップを埋める投資が増えない限り収益性がないことになるからです。(第8章, P.160 )

第10章の冒頭では次のように書かれており、雇用と消費性向、投資の関係を考察するとケインズは宣言している。

第8章で、雇用は投資と並行して増えるしかないのだ、と示しました。こんどはこれを一歩進めましょう。どの状況についても、所得と投資の間には明確な比率(これを乗数と呼びます)が決まっているし、少し単純化すれば、総雇用とその投資で直接雇われた雇用(これを一次雇用と呼びましょう)との間にもその乗数が決まるのです。この追加の一歩は、本書の雇用理論の不可欠な一部です。消費性向が与えられているとき、総雇用と所得と投資率の間に、この議論が厳密な関係を構築してくれるからです。(第10章, P.177)

ケインズは、第10章にて、リチャード・カーン(のちのケインズ・サーカスのメンバーのひとり)が1931年に発表した論文"The Relation of Home Investment" (国内投資と失業の関係について)にインスピレーションを得て、限界消費性向と投資乗数の概念を導入して、消費性向、労働雇用量、国民所得、投資との関係を考察している。マクロ経済学の教科書の最初の方で出てくるおなじみの話。

画像1

チャプター2からチャプター5までは、投資、乗数、雇用の話が延々と語られている。

世間の心理傾向がここで規定しているものとちがうのではない限り、投資のための雇用増が必然的に消費財産業を刺激し、投資で必要な一次雇用の倍数となる総雇用の増加につながるのだ、という法則が、いま確立されたわけです。.....(中略).....以上から、もし限界消費性向が1よりもあまり小さくなければ、投資がちょっと変動しただけで、雇用も大幅に上下します。でも同時に、投資をほどほどに増やすだけで完全雇用は実現できます。一方、限界消費性向がかなりゼロに近ければ、投資がちょっと上下動しても、雇用の上下動は同じくらい小さいものとなります。でも同時に、完全雇用を生み出すには投資を大幅に増やさなくてはいけません。後者の場合、雇用の変動はそんなに大きくないのですが、かなり低い水準に落ち着いてしまい、よほど過激な治療を施さないとなかなか治りません。実際の限界消費性向は、この両極端のどこか間にいて、ゼロよりはずっと近いようです。結果として私たちは、ある意味で両方の悪いところ取りをしているに等しく、雇用の上下動はかなり大きいのに、完全雇用を実現するための投資増分は大きすぎて、なかなか実行できないことになっています。残念ながら上下動が大きいために、この病気の性質はなかなかわかりにくいのに、かなり悪性なのでその性質をきちんと理解しないと治療しようがない状態です。(P.181~P.182)
これまで見てきたように、限界消費性向が高いほど乗数も大きくなり、したがって投資が変わったときの雇用変動も大きくなります。すると、貧しい社会の方が、貯蓄が所得に占める割合がとても小さいので、その割合が多くて乗数も小さい豊かな社会よりも、雇用がすさまじく変動するというパラドックスめいた結論が出てきそうな気もします。でも、この結論は、限界消費性向の影響と、平均消費性向の影響との違いを無視しています。限界消費性向が上がれば、投資の割合が変化したら、相対的な影響は比率としては大きくなるのですが、平均消費性向も同時に高ければ、その絶対的な影響は小さいものにとどまるのです。これを数字の例で説明してみましょう。(P.189)

このように、延々と雇用の話がなされている。これを踏まえて、「紙幣を詰めた古い瓶」の喩えが出てくるチャプター6を見てみる。

非自発的な失業が存在するとき、労働の限界的な負の効用は、必然的に限界生産の効用よりも小さくなります。それどころか、きわめて小さいかもしれません。長く失業していた人物にとって、何らかの労働は負の効用を持つどころか、正の効果を持つかもしれないのです。もしこれが認められれば、「無駄」な借り入れ支出なるものが、実はそれでも全体としては社会を豊かにするのだ、という理由が上の説明でわかります。ピラミッド建設、地震、戦争ですら、我が国の政治家たちが古典派経済学の知識のせいでもっとましなものを実施できないようであれば、富を増やすのに貢献してくれるかもしれません。(中略)おもしろいことですが、異様な結論から何とか逃れようともがく常識は、部分的に無駄な借り入れ支出より、まるっきり「無駄」な借り入れ支出のほうを好みがちです。部分的に無駄な借り入れ支出は、完全には無駄でないために、純粋に「事業」原理に基づいて判断されがちです。たとえば、借り入れで失業手当をまかなうほうが、市場金利以下の建設融資を行うよりも受け入れやすいのです。金の発掘と呼ばれる、地面に穴を掘る活動の一形態がありますが、これは世界の真の富に一切貢献しないどころか、労働の負の効果をもたらすものですが、これがあらゆる解決法で最も受け入れやすいのです。(P.192~P.193)

非自発的失業が存在するとき、ピラミッド建設、地震、戦争といった完全に「無駄な」支出は、古典派経済学に侵された政治家たちが言うような「事業」原理に基づいて判断されないために、受け入れ易いと嫌味をケインズは言っている。「無駄な」支出の究極形である金の採掘は、世界の富を増やさないどころか、労働に負の効果をもたらすが、これなら受け入れられるだろうと駄目押しである。

肝心の「紙幣を詰めた古い瓶」の喩えが出てくるのは、次の文章。

もし財務省が古いビンに紙幣を詰めて、適切な深さの廃炭坑の底に置き、それを都市ゴミで地表まで埋め立て、そして民間企業が実績抜群のレッセフェール原則に沿ってその札束を掘り返すに任せたら(その採掘権はもちろん、紙幣埋設地の借地権を買ってもらうことになります)、もう失業なんか起こらずにすむし、その波及効果も手伝って、社会の実質所得とその資本的な富も、現状よりずっと高いものになるでしょう。もちろん、住宅とかを建設するなどしたほうが、理にかなっています。でもそれが政治的・実務的な困難のために実施できないというのであれば、何もしないよりは紙幣を掘り返させるほうがましです。(P.193~P.194)

「紙幣を詰めた古い瓶」を掘り返す公共事業も、「無駄な」支出の例として挙げられており、住宅建設の方が意義のある公共事業であるが、政治的・実務的に困難であれば、何もしないより全然マシだろというわけである。「紙幣を詰めた古い瓶」はという喩えは、飽くまで「無駄な」支出の喩えであり、ここに入るのは「無駄な」支出であれば、何でもいいのである。「紙幣を詰めた古い瓶」は、マクガフインと捉えるのが適切

つまり、マクガフィンとは単なる「入れ物」のようなものであり、別のものに置き換えても構わないようなものである。たとえばヒッチコックは『汚名』(Notorious、1946年)を企画していたとき、ストーリー展開の鍵となる「ウラニウムの入ったワインの瓶」に難色を示したプロデューサーに対して、「ウラニウムがいやなら、ダイヤモンドにしましょう」と提案している[12]。ヒッチコックにとって重要なのは、ウラニウムという原子爆弾の材料ではなくてそれをきっかけにして展開されるサスペンスだったのである。物語にリアリティを与えようとシナリオライターやプロデューサーはそうした小道具についても掘り下げようとするのだが、ヒッチコックはそれは単なるマクガフィンだからそんな必要は無いという態度をとった[13]。ヒッチコックによれば、マクガフィンに過ぎないものに観客が気を取られすぎるとそれに続くサスペンスに集中ができない。だから、マクガフィンについては軽く触れるだけで良いというのがヒッチコックの作劇術であった。

最後のダメ出しで、ピラミット建設と中世の大聖堂建設について語られている。こんなものでも、子孫への財政負担を心配して、何もしないよりは失業を減らせるのだからマシだろと最後まで嫌味三昧。

古代エジプトには、消費によって人のニーズに応えるのではなく、したがって増えすぎて価値を失うこともない果実を生み出す活動が二つありました。貴金属探求に加えて、ピラミッド建設です。そのような活動を二つも持っていた古代エジプトは二重の意味で幸運だったし、その名高い豊かさは、まちがいなくそうした活動のおかげです。中世は大聖堂が建設して葬送歌を歌いました。ピラミッド二つ、死者のためのミサ2件は、それぞれ一つの場合より2倍よいものです。でもロンドンからヨークへの鉄道が2本あっても、2倍よいことにはなりません。ですから私たちは実に賢くて、堅実な支出者に近づこうとして己を教育し、子孫が暮らす家を建てる際にもその子孫たちの後世の「財政」負担について慎重に考慮するようになり、そのおかげでいまや失業の苦しみから逃れるための、ピラミッドや大聖堂づくりなどの手段を持ち合わせなくなってしまったのです。(P.195)

「『無駄な支出』なら何でもいい」というのは、飽くまでケインズの嫌味であって、単に穴を掘って埋めろとは本心から言っているわけではないのは注意が必要。第16章「資本の性質についての考察あれこれ」で、有用な支出であれば、それに越したことはないとはっきり書かれている。

完全雇用の条件下での資本の限界効率に等しい金利で、社会はある貯蓄高を持とうとし、その貯蓄高に対応した資本蓄積の速度があります。もし——理由はどうあれ——金利がその資本蓄積に伴う資本の限界効率低下ほどは下がれなければ、富を持ちたいという欲望を資産のほうに振り向けたとしても、その資産が何ら経済的な果実を生み出さない場合ですら経済的な厚生は高まります。億万長者が存命中の肉体を保管するのに巨大邸宅を建て、死後の肉体を保護するのにピラミッドを建てることで満足感を得るのであれば、あるいは己の罪を悔いて大聖堂を建てたり修道院に寄進したり海外宣教団に出資したりして満足できるなら、資本の過剰が産出の豊穣を阻害するような日は先送りにできます。貯金をはたいて「地面に穴を掘れば」、雇用ばかりでなく、有用な財やサービスの国民への実物配当も増えるのです。でも賢明な社会がひとたび有効需要に影響するものを理解さえすれば、そんな偶発的でしばしば無駄だらけの手段に頼って事たれりとするのは、適切なことではありません。(P.304)

他にも知りたいことがあったら、コメント欄で教えて。

\アトムホウリツジムショ!/

(参考文献)

ジョン・メイナード・ケインズ(山形浩生訳)『雇用、利子、お金の一般理論』(講談社学術文庫, 2012年)
宇沢弘文『ケインズ「一般理論」を読む』(岩波現代文庫, 2008年)
山形浩生『超訳 ケインズ『一般理論』』(東洋経済新報社, 2021年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?