都鄙の色

  玄関の扉を開けると、2の粉を入れた後のねるねるねるねみたいな色が北西の空を染めていた。

  夕暮れどきになると、その暗さに包まれたくなるのはなぜだろう。
  私は、素朴な疑問を解決することなく棚上げにしたまま日々を過ごすことでやがて沈澱してきた得体のしれないものを、旅先の海岸でそっと掬ってみる時間が一番好きだ。都会の巨大な本屋で高級な文学や美術の書物を見ながら、自分の浅学を確認する時間も好きだし、たくましいオフィスビルに入場しながらささやかな労働に向かっていく時間も好きだけれど、もはやそれらとは比較検討できない別格の意味で、やはり好きだ。

  素朴な疑問を解決することなく先送りにしていくことは、ある一定の時空間ではスティグマタイズされるべきことらしい。

  漱石は草枕の冒頭に、次のようなことを記している。

  智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
  住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟つた時、詩が生れて、画が出来る。
(『定本 漱石全集 第三巻』 P.3 岩波書店)

  私は、自分で自分の居場所を楽しくするために詩を書き、曲を作りたい。だから、自分のために詩を書き、絵を描き、曲を作る人が好きである。大きな射程を企てるような、よそよそしい常套句で飾られた空々しいものを見聞きしても、私は何も思わないし、そもそも私はそれらが志向する他人のなかに含まれていない。

  わざわざ発達心理学などを持ち出さなくても、人間の思考というものが、幼児期から青少年期にかけて、だんだんと抽象的な領域を扱えるようになっていくだろうということはあくまで一般的に了解されるだろう。
  だからといって、青年期を過ぎた人間の個別具体的な感想が、抽象的なレベルにまとめられた普遍的な定理に負けるということがあってはならないと思う。たとえばー、と、ここで一例を挙げることは敢えてしないけれども。

  廃市の隅で寝起きするということを憧憬のまなざしで眺める人たちの想像に欠けているのは、いつでも個別具体的な日々の苦しみである、ーたとえば屋根から雨が漏れる、害虫によって寝付かれない、糊口を凌ぐ手立てがない、寒暑に鞭打たれる、など。
  ひっくり返せば都会の云々も同様である、が、しかし、真に迫って言及できる立場に、私はいない。

  書きあぐねてはため息混じりに目をつぶり、つらつら書いてはまじまじと中空を見つめる。なんてことはない、明日は月曜日なのである。だからこれにて擱筆、もっとも筆など手に握っていないのだが。

  

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