大きな声で

 〈かなしいときには、できるだけ大きな声で自分の名前を叫びなさい〉

 僕にそう教えてくれたのは誰だったか? 固く握りしめた幼い僕の右手を、かさかさとした大きなてのひらで包み込んでくれた人。

 今でも僕は、かなしくなったとき、布団に顔を押し付けて、あるいはタオルを口に咥えこんで、時には窓を開け放ち、ぎゅっと目をつむって、自分の名前を大きな声で叫ぶ。肩をいからせながら喉をふるわせる瞬間、足の裏がじんわりとあたたかくなり、眉毛のあたりに汗の粒が吹き出してくる。後頭部がふっと冷たくなったかと思えば、下腹部の奥のほうに引きつったような痛みを感じる。

 自分で叫んだ自分の名前は、同時に自分の耳になだれ込んでくる。誰かに怒られている、誰かに真剣に諭されている、誰かが僕に助けを求めている……。それらすべての感覚がないまぜになったまま、つまり〈自分の名前を大きな声で叫ぶ〉ということが自分に対して引き起こすはずのあらゆる意味内容が未分化のまま、《僕の音声》は身体の中で反響する。

 その残響がひいていったあと、僕の身体に残っているのは、わずかに火照った皮膚だけだ。


 花火大会のフィナーレでまくし立てるように炸裂する大輪たちが、視界に収まり切らずに夜空を埋めつくす。どの花火に目をやっても、今が盛りと爆音をとどろかせ、閃光を空中に走査させ、火薬の名残で空を濁す。最高潮を自覚している観衆の、ひとりひとりの期待をほんの少し上回る鮮烈な光景。すべての光が消え、音が鳴り終わったとき、その不意の一瞬、空を見上げていた観衆は肉体を失う。身体の各所を結ぶ稜線がほどけ、丁重にしまわれていたはずの臓器が粉々になって空気中に流れだす。眼球は溶け、夜空を走り抜けた花々たちの残像を架空の網膜がかろうじて捉えつづける。しかし間もなく、観衆は、分裂して浮遊する自分の身体の破片をかき集め、骨や血管をすばやく組み立て直す。そして自分の所在を確かめるかのように息を吸い込み、吐き出し、また元通り、肉体の主導権を引き受ける……。

 僕はこの、みずからの心臓が酸素と栄養を届けている領域における主導権をふたたび握り直したときの、えも言われぬ不思議な幸福感の虜になってしまっている。大きな声で自分の名前を叫んだあと、この幸福感に包まれている僕は、だからもう、自分の名前を大声で叫ぼうと決意した際のかなしみなど、とうに忘れてしまっているのだ。それは果たして良いことなのか、あるいは良からぬことなのか? このようなその場しのぎのやり方は正しいのか? そんな疑問も、浮かんだ途端にむなしく消えていく。

 鼻から息を吸い込む、それも、肺の奥が苦しくなるまで自虐的に力いっぱい吸い込む。五秒間、息を止めたあと、放流されたダムの鉄砲水のように勢いよく吐きだす。


 その人が僕に教えてくれたのは、あくまでも〈かなしいときは、できるだけ大きな声で自分の名前を叫びなさい〉ということだけだ。その前後におこなうある種の儀式的な行為は、いつからか僕にすっかり定着した。

 その言葉は誰が言ったのだったか? 僕はいつも通りの手順でかなしみを紛らわせたあと、あのかさかさした手のひらの感触を細部にいたるまで思い出してみることにしている。

 たとえそれが良いことであっても、良からぬことであっても、あの手のひらの中にあった僕の幼い右手の感触を永遠に引き伸ばしてくれたその言葉が、なによりも愛おしく感じられてくるのだから。

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