雨の東京午後4時13分発

  沿道の緑が雨粒を溜め込んで静かに眠っている。濡れたコンクリートやアスファルトも明度を下げ、息を潜めている。
  市谷見附の橋の真ん中で、行き交う人々に紛れてふと立ち止まる。傘をぶつけられ、右肩が雨粒でぐっしょりと冷たくなってきた。

  外濠の水が真緑色をしている。水面の上に覆い被さる樹木の葉々の色を反映しているのか、それとも雨によって周囲の緑が水中に溶け出したのか?
  
  私は橋の真ん中で立ち尽くしながら、19歳のときに書いた「生を演じることについて」というごく私的な日記について思い出した。
  詳しい内容は略し、思い切って軽業的な総括を試みてみれば、それは次のような日記である。

 とある分岐点に出くわした時、その一点から様々に伸びる道筋は、水平方向ばかりではなく垂直方向へのものもある。つまり、立体的なものである。どこへ行こうと勝手だが、どこへ行くにしても、あなたは演技をしなければならない。しかしその演技を恥ずかしがることなかれ。物語を先取りした挙句、生への情熱を鎮火してはいけない。

  市谷見附の橋の真ん中で立ち尽くす。空には名前の分からない鳥が一羽、霧雨へと切り替わりつつある東京都心の上空を東へ進む。外濠は真緑である。名前のない魚が、水底でじっと眠っているような気がする。

  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?