小説「Pachinko」

仕事で関わる人たち数人から「テジュン、Pachinkoって小説知ってるか?オバマも推薦してたけど、ぜひ感想を聞かせてほしい」と言われてずっと読みたい本リストに入っていたこの本、ようやく読み終えた。

僕が読んだのは英語版だけど、日本語版の翻訳もとてもよくできているらしい。


久しぶりに、読後に感想文をさっと書けない本に出会った気がする。Korean Americanである著者が膨大な労力をかけて書いたものであることが分かる本で、読んでいて違和感に感じる描写が極めて少なかった。たとえば、血へのこだわり(だから先祖代々の系譜図を皆持っている)、教育への投資(世界中でそうなのだけど、迫害を受けた人間集団は教育にお金をかける。教育は奪えないから)、つよい男尊女卑思想などは、よく描けている。在日の人が読んだら「あるある」と感じる箇所はいくつもあるだろう。

もちろん、朝鮮籍は北朝鮮籍ではない、この本が書かれているくらいの時代から大企業に入ることができた在日は僅かながらいる、など正確でない記述もある。ただ、全体のストーリーの価値を減じるような描写はなかった。

  

著者が描いているテーマ、すなわち在日社会の込み入った歴史と、その中で様々な葛藤を抱えながら生きていく人々の姿については、僕もいつかまとめて書いてみたいなと思っているテーマだった。それをどうやって書いたらいいのかの糸口がつかめていなかったのだけど、この本を読んで、小説という手法の力を改めて思い知った気がする。

典型的な在日コリアンというのは存在しない。その姿は統計からは浮かび上がってこない。ルポタージュなどでインタビューを重ねて、それを本にしても、読者はそのイメージにたどりつきにくい。だけど、小説は、うまく書けたらだけど、とても高い精度で「典型的な人」を描きだすことができる。そして、そうやって生み出された人々は、人種や国を越えて人を共感させる力がある。僕にこの本を勧めてきた人の多くは移民の子孫だった。

 

構造的に良い仕事につけないなか、多くの在日が就いた仕事は、焼肉等の飲食、金貸し、ヤクザ、そしてパチンコなどだった。本書ではその職業がすべて登場する(ヤクザが職業なのかはさておき)。海外の同僚たちにとっては、パチンコがそこまで蔑視される理由がいまいち分からないらしく、「だって、勝てるかもしれないぶん、ネットゲームとかよりマシだろ?」と質問された。確かにそれはその通りなのだけど、当時の在日が多く従事した産業は、それが何であっても同じように見られたのだろう。坊主憎けりゃ袈裟まで憎し、みたいなものだ。

僕ですら子どもの頃に「朝鮮人ニンニクくさい」と言われたり、「朝鮮へ帰れ」と言われたりしたことがあった。親の世代、祖父母の世代はもっとひどかった。祖母が若い頃、子どもにすら馬鹿にされて石を投げられた話など、そういう話は在日の家に育った子どもならいくらでも例を出せると思う。幸いながら、僕が子どものときにはソーシャルメディアはなかった。僕がいま学生で、Twitterなどを見て在日に対する罵詈雑言を見続けたら、どんなに苦しいかは想像もつかない。

そういうなかで育つ子どもは、(1)やられたらやり返す、(2)見返そうとする、(3)出自を隠そうとする、(4)絶望する、のどれかになりがちになる。この小説の登場人物たちもこれをなぞっているし、大人になってもこのパターンで生き続ける人は多い。

個人的には、(5)しがらみから解放されて善く生きる、というのが一番だと思っている。これは、過去の嫌な思い出に蓋をするということではない。嫌な過去を忘れようとしても、忘れることはできない。僕が説きたいのは、自分の心の原動力に迫害者たちを居座らせないということだ。嫌な目に遭わされた社会や人々を思いながら生きていくのって、あまり健全なことではない。

迫害者への最高の報復は、赦すこと、善く生きることだ。権利のための闘争を続けることと、そういった精神状態を保つことには両立しうる。赦すことというのは相手の過ちを看過しろということではない。

もし僕が同じテーマで小説を書くのであれば、せめて一人はこういった人物を登場させて、その人に幸せになってほしいなと思う。小説にそこまでの役割を求めるのは酷だけど、Pachinkoは共感はもたらしても救いはもたらさない。「カラマーゾフの兄弟」みたいに、生きることの苦しさを描きながらも、最後には少しの希望が残るような小説のほうがよいのではないか。


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