歴史の流れにおける個人の役割

今年のテーマとして、世界史の本をいくつか読んでいる。教科書のように網羅的なものというより、科学、経済、ウィルスのような、一つの切り口から世界の歴史を眺めるもの。

そして、それに際して歴史における個人の役割についてよく考える。

歴史家たちは、社会変化における個人の役割について懐疑的だ。というのも、ある社会に何らかの大きな変化が起きるとき、すでにその前提となる諸条件が整っていることが多いからだ(この点について、僕が読む本の多くが唯物史観に反論はしているものの、結局マルクスの呪縛から逃れられていない気もしている)。

例えば、「独立の英雄」がいなくても、世界的な趨勢の中、植民地国家たちの独立は遠からず果たされているはずだ。また、僕が取り組んでいる金融包摂においても、技術進歩や途上国の経済成長に伴い、いつの日か世界中の人たちが比較的安価で便利な金融サービスを使える日は来るんだと思う。

だとしたら、歴史の流れの中で、個人の行動にどれほどの意味があるのだろうか。個人にできることはほとんどなく、ただ流されるだけなのか。

(そもそも、本当に立派な偉人たち自身は、こういった質問そのものが馬鹿らしいと思う気もしている。僕が知る本物の人たちは日々を自分の心に従い生きているのみであって、望んだ変化が結果として実現したら素晴らしいけれども、それが仮にやってこなくても、心は常に満たされているからだ。インパクトの多寡によって人生の意味の軽重を量るのも愚かしいことだ。)

その上でなお、僕はやっぱり個人の役割を強く信じている。理由は二つある。

まず、客観的な環境に鑑みると不可避ともいえる潮流があるとしても、その変化の最終的な性質がどのようなものになるかについて、個人の役割は残っているからだ。例えば、ボールをビルの上から落としたらいずれにせよボールは落ちるけど、落とす人によっては、下にいる人々に迷惑をかけずに落とすことができる。歴史の流れにおける個人の役割はこれに似ていると思う。変えられない流れがあるとしても、その変化の行き着く先について微調整を加えるくらいの役割は、個人が果たすことができる。

例えば、マハトマ・ガンディーがいなかったら、インドの独立は全く異なる姿になっていたと思う。彼がいたからこそ、独立したインドはインド・パキスタン・バングラデシュに分かれるだけで終わった。彼が南アジア人たちの精神的統合を成し遂げていなかったら、もっとバラバラの独立が起きた可能性が高いと思う(インドは州別に言語も文化もかなり違う)。そして、ガンディーがいた結果インドがこの規模で独立したことは、2050年以降の世界史を大きく変えていく。

もう一つは、同時代の人々に与える変化だ。善く生きた人は、その人と関わった人々をより立派なものにする。「この人の前であまり悪いことはできないな」と思う人がいるだけで、世の中はやっぱり少し変化する。内村鑑三が勇ましい高尚なる生涯こそ後世への最大遺物と喝破したのには一理あると思っている。

 

前者(歴史の流れそのものの微修正)は歴史の祝福を受けた偉人だけができることだけど、後者(他人に関わること)は心がけ次第で誰でもできる。僕は自分が生きていることで、少しだけでも自分に関わった人たちの魂をよりよいものに出来ているのだろうか、なんてことをここ数年間よく考えている。


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