見出し画像

他人に対してどう関わるべきなのか

新生児でない限り、ある人が生まれてから、いま僕の目の前にあるその人自身になるまでは、相応の時間が経っている。若いときは遺伝の影響が相応に大きいけど、時間が経つにつれてその影響は相対的に小さくなっていき、その人が経験してきたこと、すなわち環境がその人の成り立ちに大きな影響を与える。

ある人が持っている遺伝子は生まれた時点で決まっている。それは親の遺伝子x2のうち、どの部分をその子どもが受け継ぐのかによって決まる。

一方で、その人が人生を通じて経験することは様々な要素が複合的にからまっている。生まれたときの初期環境はもちろん環境の大きな要素にはなるのだけど、そこで本人が行う意思決定、周囲の人々の関わり、僕がその人にどう関わるか、その他様々な偶然の組み合わせによって決まってくる。

生きていくうちに、経験が与える影響はより大きくなっていく。成功体験、失敗体験、トラウマなどの積み重なりで、人の気質をはじめとする非認知的能力(努力できる、人とうまくやっていける、など)は変わっていくし、それが一般には遺伝の産物とのみ思われるようなものにまで影響を与える。容姿すらもどういう生活をしているのかで劇的に変わっていく。30代からの顔にはその人の人生が反映されるとはよく言ったものだ。

なんてことを学ぶにつれて、ある人に腹を立てるということがすごく減っていった。眼の前に憎たらしい人がいたとして、その人が何歳であっても、その人はその人が生物学的な親から受け継いだものとこれまで経験したことによって、今の人格をなしている。急な雨降りに腹を立てても詮無いのと同じことだ。人間の人格形成は雨降りよりはるかに複雑ではあるけれども。

これは決してその人を見限るというわけではない。その人が歩いてきた人生と経験してきたことを、まずは純然たる事実として、可能であれば共感とともに受け止める・受け入れるということだ。世の中には色んな人がいて、みんな頑張って生きている。

そして、可能であればその人がいい感じ(極めて主観的だけど)になるお手伝いができたらいいなと思っている。それはすなわち、僕自身がその人の将来における経験の一部になるということだ。手厳しく叱るのがいいのか、穏やかに見守るべきなのか、自分の姿を見せて本人に気づきを与えるのか、そもそも時間がないので立ち去るのか。正解確率を高めることはできるけど、それが100%になることはないので、手探りで出来ることをする他ない。

子どもに対してはこういったことができるのに、大人たちに対してはそうできない人が少なくない。だけど、人間はいつまでも経験によって変わり続ける存在なのだから、全ての人を共感とともに受け入れ、時間が許される限りにおいて僕も相手も善い人になる努力を続けていく他にないんじゃないかと最近は思っている。他人を愛する努力って、要はそういうことなんじゃないかな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?