仕事と生き方

ちょっとある話題について考え事をしていたら、階層の違う話になってきたので、少し書き留めておきたい。

前に、政治的であることが基本的にマイナスである人(例えば会社やってる人とか)にとって、政治的であることに何の意味があるのだろうかということについて考えていた。そして、それをもう少し掘り下げてみると、結局のところ、生きている間に何をしたいのかという話に帰着すると思うようになった。

すなわち、大切にしたいのは仕事や人々なのか、自分が納得のいく生き方をすることなのか。少し言い換えると、自分の外にあるものなのか、自分自身の有り様に関するものなのか。

これは二分法にはなりえなくて、グラデーションの問題だ。極端なケースを考えると分かりやすい。例えば、人も植物も動物も何もない真っ白な空間に、死ぬこと無く一人だけいるというような状況があるとして、そこで自分がどう振る舞うのかによって生きる意味を見出す人はほとんどいないだろう。結局のところ、人間は社会的な存在なのであって、幸せの要因が自分の内なる世界に寄っているか、外なる世界に寄っているかという偏りはあるとしても、完全に自分のありようだけで全ての満足が完結する人間なんていないということだ。

僕の知る限りだと、人生において大切にしたいこと・成し遂げたいことのウェイトが自分の外にあるのか自分自身にあるのかについての結論は、人によってかなり分かれる。覚えている限りで書くとすれば、例えば内村鑑三は人間が後世に残すことができる最大の遺産はその人の生涯であると言った(これは、後世に具体的なものを残すことができる天才は世にそういないという留保つきの結論だったけれども)。稲盛和夫さんも、人生の目的は、生まれた時より立派な人間になることであると話していた。

一方で、人生の目的が子どもや伴侶の幸せである人もたくさんいるし、一生のうちに成し遂げたいなにかのために人生をかけている人も多いだろう。多くのアーティストにとって、仕事とはそういうもので、だからこそ色んなものを犠牲にすることも少なくない。家族の幸せを人生の目的とする人と、仕事を人生の目的とする人を並べるのも変な感じがするのだけど、それらは自分の外に存在しているという点では同じだ。

人生の目的が、与えられた環境においてどのように振る舞うのか、もしくはそれに反映される自分の心のありようをどのようなものにするのか、にある場合は、少なくとも意識のある限りは人生の意味が失われることはない。一方で、たぶん、人生の目的が自分の外にあるのは、危うい生き方なのだと思う。というのも、自分が生きているうちに、それらが失われてしまうと、生きる意味がなくなってしまうからだ。戦争で家族を失った人や、写真を生涯の仕事にしていた人が失明してしまったら、その人の残りの人生は、意味の失われたものになってしまいかねない。

ただ、どちらが良いのかについては、結論が出ないでいる。



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