「ネトウヨ」を憎めない理由

国家や民族を旗印にしなければいけない人々は確かに存在する。在日コリアン一世にとっては、国家や民族は一大事だった。在日というだけで子どもから石を投げつけられたりしていた僕の祖父母たちにとっては、「自分を守ってくれる何か大きなもの」が存在することは切実な問題だった。同じ理由によって、パレスチナにいる人々が、民族の権利について叫ぶのもよく分かる。いわゆる、サバルタン(subaltern)ナショナリズムというやつだ。追いやられた人々や虐げられている人々にとってのナショナリズムは、仲間を糾合する手段であったり、庇護者を探すための方便になる。

とすれば、ひどく荒っぽい表現をつかうと、(特に攻撃的な)ナショナリズムは困っている人が生み出すものなのだと思う。優越的な立場にある人々にとって、ナショナリズムをかざすことには何の意味があるのだろう。特に攻撃的なナショナリズム、「◯◯人は」という紋切型の表現とともに誰かを蔑む必要がどこにあるのだろう。郷土愛や民族愛は多くの人にあるだろうと思うけれど、それを持つことと、それが排他的なものになることとの間には何の関連性も見いだせない。

だとすると、日本のような国において攻撃的なナショナリズムが抬頭しているのは、この国において困っている人が増えていることを示唆しているんだろう、と思う。ドイツのネオナチも同じだ(というか、昔のナチスもそうだ)。そういうのを語る人たちは、自分が偉大なもの(もしくはその一部)になりたいとかが目的であって、それは、苦しい現状やなんとなく存在している停滞感や無力感から自意識を守るための一つの方法なんだと思う。

もちろん、困っていなくても排他的なナショナリズムを持つ人というのは一定数存在するが、その人たちが少数派になるのではなく、多くの支持を集めるのには大勢の支持者が必要であって、大勢の問題というのはつねに社会情勢と関連している。彼ら彼女らはカナリアの炭鉱のようなものなのだろう。

たぶん、このあたりが、ニコ動に出演すると「なんだスパイか」とか書かれてもなお、僕が「ネトウヨ」と呼ばれる人々をあまり憎めない理由だ。こんな冷静な考えを持ってしまう理由の一つは、前にも書いたと思うけど、僕は人間は大部分においてはインプットに対するアウトプットであって、基本的に環境に依存する生き物だと思っているからだ。攻撃的なことを書く彼や彼女は、場合によっては自分だったのかもしれない。誰かを恨んだり攻撃せずにはいられない人々には、相応の理由がある。

だから、こういったナショナリズムは、それを論破することで無くなるわけではなくて(多分それはむしろ逆効果。もちろん中には言ったら分かる人はいると思うけど)、その根底にある格差や無力感を打ち消すことによって穏やかになっていくのだと思う。困ったことに、今の日本のみならず世界中の先進国でそれを抑制するのは困難を極めるわけで、途方に暮れるわけだが。


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