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科学的社会主義という言語矛盾

先週、三島由紀夫と全共闘の討論会についての映画を見た。学生たちが使っている言葉がどことなく懐かしかった。僕は2000年に大学生になったにもかかわらずマルクスの主要著作は大抵読んだ。資本論については読書ノートが300ページにもなった。時間のある大学生だったからこそ出来たことだなと思う。あの頃が懐かしい。

そして、久しぶりに覗いたソーシャルメディアで日本共産党が話題になっていたので、この党の綱領規約を読んでみた。共産党宣言で書かれている内容を、日本の現実に引き寄せた感じで、穏当な書きぶりだなと思った。暴力的革命の時代は終わったということなのだろう。

ただ、それでも残っていたのは「科学的社会主義」という言葉。未だに共産党の規約には「党は、科学的社会主義を理論的な基礎とする」と書かれている。

この科学的社会主義という言葉はエンゲルスが書いた「空想から科学へ」に基づいているのだろう。この本でエンゲルスは自分たちの思想は空想ではなく科学的社会主義であると主張した。

ちなみに、マルクスの本を読んできた僕の感想だけれども、マルクス本人が科学的社会主義という言葉を積極的に使ったとは思えない。彼は経済と社会を、哲学を拠りどころにして解明しようと誠実に取り組んだ人間だ。それは資本論を読んでいるとよく分かる。ただ、エンゲルスはマルクスのパトロンであり政治家だった。彼がマルクス主義を作り上げ、マルクスの思想を社会変革の道具にした。

これは宗教でもよく起きることだ。宗教は弟子が創始者を道具化することによって始まる。そのために、宗教そのものの教義と、創始者の思想がズレていることが散見されるようになる。カール・マルクスがマルクス主義者になるとは思えない。

脱線した。さて、科学的社会主義という言葉は、言語矛盾だと個人的には思う。Explaining the Worldにも書かれているように、科学における理論とはいつまでも暫定的なものであり、科学的アプローチをとる人々は、理論が現実を説明できなくなったら、理論を乗り捨てていく。ニュートンの理論が説明できない事象が見つかれば、アインシュタインの理論を用いて、その理論すらも乗り捨てる。

なので、科学という言葉は、主義(ドグマ)とは基本的に相容れないものだ。主義は変わることを拒否する。一方で、科学は観察される事実に基づいて理論を変え続ける。資本の実態解明にあそこまで真摯だったマルクスが、科学的社会主義という言葉を使ったとは思えないのはこのためだ。

さらに込み入っているのは、日本共産党の綱領は、日本の現実にあわせてその活動方針を変えてきていることだ。そういった柔軟性を示している日本共産党が今も科学的社会主義を掲げていることが不思議でしょうがない。このあたり、共産党の人々はどのように考えているのだろうか。


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