心の中の世界

最近ソーシャルメディアとかを見ていると誰かを攻撃したり貶めたりする人たちがいっぱいいて、なんだか悲しい気持ちになる。もちろん僕自身も他人をついつい非難してしまったりするけど、ちょっと時間が経ったら反省するくらいにはなった。

他人を貶めたくてしょうがない人は心の中の世界が弱い人なんだと思う。

お金が無くても、人に馬鹿にされても、力が落ちても、病気になっても、仕事で失敗しても、それでも微笑みを絶やさずにいられる人がいる。そういう人は、何らかの歴史の悲劇に巻き込まれて強制収容所に入れられても最後まで快活にやっていける人たちだ(いや、もちろん入らないほうがいいし、抜け出すように全力を尽くすのだけどさ)。外の世界の出来事に自分の精神のあり方が左右されない状態になっている人たち。

こうやって自分の精神状態を可能な限り外的な環境と切り離せることは、心のありようを安定させるために必要不可欠なんだと思う。美貌も、お金も、能力も、人間関係も、全てが移り変わるし、だめになってしまったりもする。そういうものを自分の精神安定の拠り所にしている限り、不安はなくならない。

自分の外に拠り所がある人は、それがなくなって精神的に苦しいときや、拠り所がいつ消えるのかと不安になっていときに、自分を落ち着かせるために、ついつい誰かを貶めたがる。言い換えると、誰かを馬鹿にしたり貶したりするのは、自分の精神世界が安定していない人が、その不安を紛らわせるためにしている精神防衛活動なんだと思う。

でないと、わざわざ時間を割いて他人をけなす理由が僕には思いつかない。誰かが劣っていたり誤っていたりすると思うのであれば、それが間違いだとだけ言えばいいわけだ。それに、けなされる相手が多くの場合人間に限られるということも「誰かをけなすのは自己精神防衛のためである」という主張を強化してくれるように思う。

最近世の中に他人を貶める言葉が氾濫しているのは、多くの人が漠然と感じている世界の今後に対する先行き不透明さと、心の中の世界が安定していないことの二つを原因としているのだろう。技術的な革命が起きると世界のあり方は不安定になるので、そちらはどうしようもない(個人的に出来ることはしているけど、これは大波のようなもので、個人ではどうしようもないと思っている)。ならば、世の中が平穏であり続けられるかどうかは、一人でも多くの人の心の世界が安定しているかどうかにかかっているんだと思う。

より多くの人が心を落ち着ける手伝いができたら良いなあと最近思う(その人たちの依存対象になるんじゃなくてね)。でも、それってとても宗教家っぽくて嫌だな。そうやって教えを説いたりはしないのだろうけど、自分にできる一つの平和のための貢献は、毎日少しずつでも自分の精神の世界を強固なものとして、いつも穏やかに人と接し続けることなんだと思う。それが克己であり修行なんだろう。


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