差別主義的な反差別活動家たち

あくまで個人的な観察結果だけど、「Xによる差別」に反対する人が「Yによる差別」を許容することは相当に多いと思う。たとえば、人種差別に反対するが女性差別的な人、格差問題にあまり関心がないフェミニスト、貧困問題に取り組むが反ムスリムな活動家、といった具合に。

どうやらこういう人たちにとっては、「自分を差別するのは気に食わないので、そんなことをする奴らはやっつける」というのが基本的な行動原理であって、人権とかそういうのは自分に都合がよいから使っている方便のようなものであるらしい。こういう人々は、自分がたまたま差別される側の属性を持っていたから闘っているだけで、差別される側になる属性を全く持っていなかったら、おそらく無自覚なまま暮らしていたのだろうと思う。

なぜそうなってしまうのかということを考えてみると、自分が経験してきて嫌だったことを、一つ抽象的なレイヤーで消化するということができないからであるように見える。

たとえば、「出身民族ゆえに差別される」という経験をした人がいるとする。こういう人が、民族由来の差別や、人種由来の差別に反対するようになるのは自然なことだ。だけど、そこから全ての差別に反対するようになるためには、「「Xゆえに差別される」という構造そのものが、Xの中身が何であれおかしい」という発想にならないといけない。そして、そういう発想に辿り着く人は少ないようだ。

これを乗り越えるためには、人文学的な教養と、想像力を要請する訓練が必要なのだと思う。こういうことこそリベラルアーツだと僕は思うので、多くの大学で教えたらいいんだと思う。

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