語る理想と現実のギャップの設定方法

栗城さんが亡くなったときのことはnoteに前に書いた。僕はこの本が出ていることを全く知らなかったのだけど、先日ネパールの登山家たちが、K2の冬季登頂を実現するという史上初の快挙を成し遂げたニュースをみたときに、「そういえば、栗城さんが亡くなってからもう2年目か」ということをふと思い出して、Google検索をしているうちに、この本を見つけたのだった。

昨日夜に読み始めたら止まらなくなってしまって、一気に読み切った。

デスゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

なんというか、読後にすぐに言葉が出てこない本を久しぶりに読んだ。

一つ一つの内容、例えば彼が凍傷をわざとしていた可能性、彼が実際には酸素を吸っていた事実や、長年お世話になった占い師に対して最後の登頂前に「もう会うことはない」と話していたことなどについては、そんなに驚いていない自分がいる。前のnoteでも書いた通り、彼は普通の人だった。だから、素の自分と、外向けの自分のギャップに苦しむうちに、チグハグさが加速してしまってもおかしくない。それでも、僕自身が(できなかったとしても)何かできることがあったのではないか、というのは今も思い悩むけれども。

 

外向けに発するメッセージで語る自分の姿と、実際の自分の姿のギャップに苦しむのは、彼だけではないと思う。外向けに多くのメッセージを発さないといけない人の多くが、同じリスクを抱えている。芸能人、インフルエンサー、起業家、政治家、経営者など。実際、こういう職業に就いている人には、人格破綻している人や、メンタルがやられてしまっている人が相対的に多い。

未来は、その人が語る理想と現実の間にやってくる。だから、よりよい未来をつくりたいのであれば、理想を語らないといけない。そして、理想を語り、それに現実を近づける努力を続ける必要がある。当然ながら、嘘をつくのは論外だとして。

この、語る理想と現実のギャップをどこまで許容するかは、個々人が自己判断するものなんだと思う。具体的には、自分自身の精神的な勁さ、理想実現願望の強さ、理想を実現できるかどうかについての個人的な確信度などを勘案しながら、どの程度までの理想と現実の乖離を許すかを決めるべきなんだと思う。

その乖離幅を決めた後には、メディア露出(既存メディアもソーシャルメディアも含め)の頻度を意識したほうがいいと思っている。自己規律ができる人の場合はその限りではないけれども、メディア露出は自己顕示欲を駆り立てるようにできている。なので、出る頻度が上がれば上がるほど、ギャップは自分が設定した幅よりも拡がりやすくなる。

それにしても、何か自分にできることがなかったのかな、というのは今もときどき考えてしまう。

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